書評日記 第625冊
クヌルプ ヘッセ
新潮文庫 ISBN4-10-200105-0

 本を読まないと誰しもが馬鹿になるかと云えばそうでもない。馬鹿になる人もいれば馬鹿にならない人もいる。本を読んだら小説を書けなくなる場合がある。逆に本を読まなければ書けない小説もある。私が本を読みつづけているのは筒井康隆を始めとして安部公房や大江健三郎、澁澤龍彦、荒俣宏、井上ひさしが多くの本を読んでいたからだ。彼らに追随しようと思えばまずは真似ること、大量の本を読むことから始めた。時によっては浅田彰、上野千鶴子とか、で論理武装をしてみたり、ユング心理学関係の周辺を漁ってみたり、流行りの村上春樹や村上龍を読み飛ばしてみたりと、するわけだが、人生の知恵を集積した書物という視点と娯楽のひとつとしての消費する本という立場は同時に体験するものではないのだから、時と場と対象が色々ならば受け取り方も得るものも失うものも様々ではないか、と思う。すくなくとも「本」に対する頭の巡りの良さは多くの訓練=読書の中で培われるものだから、演奏家が音楽を聞かずに名曲を奏でないと同時に――演奏家は再生芸術だから違う?、と篠田節子の「ハルモニア」を読めば出てくる――毎日演奏を繰り返さない限り技術の向上は為されない――と「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」と引っ掛けてみて――わけで、書評日記を再び毎日へと再開したのもそれを自覚したのもあるし、「書く」ことへの筋力トレーニングと「読む」ことへの後天的なセンス(「ベストセラーの書き方」をクーンツが書いた意味を「利己的な遺伝子」的考え方で解いてもよいし)を衰えさせないためにと、最終的には大江健三郎著「人生の習慣」のように毎日に無理なくすすめることのできる継続こそが自分自身を豊かにするのではないか、と思ったりする。もちろん、カフカのようにとか「高丘親王航海記」とかという孤高さも含めてという欲もありつつも、糊口をしのぐという対比と「食単随園」のお遊びと、三島由紀夫と中上健次があるのだが、竹内直子や竹内久美子、戸川純や水森亜土、ビョークやサザンオールスターズや原由子、となれば長野まゆみに松浦理恵子という流れになるのだけど、矢野顕子や谷川俊太郎や佐野洋子もあるわけで、忘れずに谷崎潤一郎や沼正三や夢野久作も加えないといけないのだ。こうなると一方向的な視点は無意味で、トータルにいけば原節子、笠智衆、小津安二郎。ディックとかルグウィンとか、どちらに時間を掛けるべきか私には判断しかねるのである。まあ、陶芸やマラソンや冒険家よりも行動範囲狭いことは「日の名残り」の解説にあったようななかったような。
 
 そんなぶつくさはどうでもよくて「クヌルプ」は私のヘッセ第三冊目である。当然のごとく「車輪の下」を読んで、〈少年〉から派生して「デミアン」を読んだのだが、「クヌルプ」はいきなり本棚から引き抜いてきた。
 解説によれば、ヘッセの主人公はメインロードから外れてしまった人で、人生の失敗から始まる「クヌルプ」のほうは、恋人に振られる(裏切られる)という人間不信から抜け出ることなく、流浪の旅に出て、不遇にも肺炎で故郷の近くで神に召されてしまうという不幸譚である。或る意味で人生の最初の躓きから抜け出ることができなくて、皮肉と自嘲を繰り返しているうちに外面と内面との乖離が激しくなり、それらが統一されないまま幕と閉じてしまう不完全な人間を描いたものなのだが、その「不完全さ」は多くの人が持っているものでもありつつも、「不完全さ」を常に意識して持つ者は一部しかいないという理解され難いという二重の不幸に見舞われている。この小説にある、思考への亢進病的な執拗さと逃避を兼ねた流浪癖は「社会の縁」たる文学の意義に確実な足場を用意してくれている。ヘッセが示すのは、ヘミングウエイ的な強い物語ではないけれど、ときに人が考える時期における柔らかなビジョンを与えてくれる。一種、ほとんどの分岐点を過ぎてしまったかに思える私の歳において「クヌルプ」を読むことは、やや過去への感傷を含んだ夕陽の眺めを含んではいるものの、いわゆる物語を綴ること(あるいは語ること)の面白さ、複数の人生を幾度も生きなおすことによって思考しえるもの、卑近ではあるが私くしと同じ境遇に見舞われたクヌルプへの共感と別の道と現実と物語世界とを再認識するのに役に立つのである。もちろん、ヘッセ文学という分野があり、安部公房文学というカテゴリがあるという独立性に歩みを一歩も二歩も踏み入れたい動機を固めるのにも必要なのだが。
 ともあれ、「デミアン」が〈少年〉をキーワードにしてたどり着いたと同列に「クヌルプ」も挙げられるかもしれない。そういう意味では少女漫画に近い耽美さがヘッセにはあるのかもしれない、と蛇足を入れておく。

update: 2001/04/05
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