書評日記 第638冊
Big Fish
ティム・バートン
ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション  大学の頃、何をトチ狂ったのか『シザーハンズ』を見て以来、ティム・バートンの芸術美に目覚めてしまった私。
 『シザーハンズ』では、雪のクリスマスに原色で彩られたアメリカの町を舞台に繰り広げられるわけだが、『ビッグ・フィッシュ』でも片田舎(田舎と半田舎の中間ぐらい)を舞台にして物語が繰り広げられる。この「物語」の部分は、宮崎駿の描く物語に通じるような気がする。たとえば、宮崎駿は日本の物語を語る。おそらく日本人にしか通用しないユング心理学に通底するような雰囲気が、彼の映画にはある。それと同じように、ティム・バートンの作る映画の色合いには、かつてのアメリカを思い出させるような(私は日本人なのだけど)シーンがたくさん出てくる。
 父と息子との葛藤、そして出会い、別れ、という形で単純化できるけど、その普遍さはアメリカの強い父の姿、子供からみた万能の父がある日を境に普通の人間になる、とくに同じ性別である息子の側からみれば、「父」という絶対的な存在から「人間」という形を持った存在へと変化していく過程、みたいなものがある。
 DVDではおまけが入っていて、監督や原作者のインタービューが聞けるのだが、ティムバートンも主役であるユアン・マクガレーも原作者もダニエル・ウォレスも、「一様に父との葛藤があった」と答えるところが面白い。これは個人的なものではなくて、同性であるからこそ必ず存在する「父と息子」の関係というものが普遍に現れる、ということを示している、のだね。まあ、オィディプスほどではないにしろ、子供にとってある程度の社会的な地位がある(といっても実際に「地位」があるわけではなく、大人社会に住んでいるという「地位」があるだけ)父の姿は、万能者に近い。それがほら話であれ、現実であれ、しつけであれ、やっぱり母親からの話と父親からの話とは違った受け答えをしてしまうものなのだ。特に、父性の強いアメリカという国では、父親の若い頃なんかと自分を比べれば息子はぺしゃんこになってしまっても不思議ではない。

 と、そういう心理的な話は別にしておいて、スペクターという浮ついた村の話やサーカスの話なんてのは、さすがバートンの世界観という感じがする。おそらく、衣装や美術監督も含めて、アメリカに住んでいる共通体験をひとつひとつしっかりと具現化していく力がバートン監督にある、ということだろう。自分のイメージを相手に伝えることが非常にうまい人なのだと思う。
 初めて彼の顔を見たのだが、快活なユアン・マクガレーに比して、ちょっと愚鈍な感じのあごを持ったティム・バートンは、やっぱりこんな人(顔)だったんだ、という感じがした。なんか安心する感じがする。

 そういう内的なイメージ、外交的な父親に対して内向的な息子(職業は何かを執筆、ということになっているらしい、どっかの会社に勤めている)というパターンは、いわゆる「社交性」を重んじるアメリカ社会へのひとつの批判でもあるのだろう。パーティジョークとアメリカンドリームを組み合わせた世界と、そこでちょっとはみ出てしまう息子の姿は、結局のところ、父親と同じ姿になれはしなけれど、ひとりの「人間」を理解(あるいは許容)するところまで成長した、という結末なのかもしれない。
update: 2004/11/24
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