書評日記 第63冊
速読の科学 佐々木豊文
光文社

 オリンピック軟体動物合戦、女子新体操が始まる。あいにく瞬間芸の飛び込みは見逃してしまったし、空中サーカスの体操は午前4時という尋常ではない時間にあったので見てない。しかし、何ですね。手具(しゅぐ)という言い方も妙だけど、新体操の選手、皆が皆、化粧が濃くて髪を頭の上で結ってある。
 麻生いずみの「光の伝説」によれば、あの柔らかさは「筋力」の賜物だそうである。足を背中からまわし、目の前のボールをとるような動作(見てると、「同じ人間なんだろうか」と思う。解説の人もそう云ってる)は、背筋を使う。手で支持せずにピポットをまわるには、十分な腹筋と腿の筋力がなくてはいけない。
 そうそう、麻生いずみの漫画。「光の伝説」も「ナチュラル」も悲劇で終わる。どうやら彼女は「少女漫画とは悲劇なり」という信念をお持ちのようだが、なにも強引に悲劇にすることはないと思うのだが・・・。

 筒井康隆の新刊「笑犬樓よりの眺望」(新潮文庫)を買ったのだが、耳の痛いことしかり。別に俺は「プロ」ではないので、縛られる必要はないのだけれど、人に読んでもらえるような文章を書くためには、ある程度の<枷>は念頭に置いておく必要があるかもしれない。少なくとも、凡ミスはなくそうぜ、うん。
 頷くことしきりなのだが、つくづくASAHIネットに入らなくて良かったと思っている。「噂の真相」をリアルタイムに読まなくて良かったと思っている。立派な取り巻きになってしまうところであった。危うい、危うい。

 さて、本日の一冊は「速読の科学」(光文社)である。いわゆるカッパノベルズ。世の閑人達が、「ほー」とか「へー」とかうなずきながら、読む本である。ま、「快楽主義の哲学」が出たところだから、あなどれないけれど、本棚にこれがずらりと並んでいても困りものである。
 俺がなぜ速読の本なんて持っているのか。「演繹法」的に解説すれば、俺が本読みを本気ではじめたのは浪人の頃である。高校時代は、SFぐらいしか読まなかった。唯一「竜馬がゆく」と「戦争と平和」のような文学作品(?)とかいうものをちょっとだけ読んでいた。高校生の頃は貧乏だったので(親の名誉のために云っておくと、貧乏だったのは家族のうち俺だけ。月2千円弱の小遣いだけが頼りだったので、漫画を何冊か買えばそれでおしまいである。中学生の頃は、月千円だったぞ)ろくな本を読まなかった。おやじは普通のサラリーマンなので、本棚が豊富というわけではなかった。読みもしない文学全集が並べてあってもちょっと困る。引き出しにあったサガンの「悲しみよ、こんにちは」は印象的であったけど。
 ま、環境が悪いのか、俺の志が悪いのか、読書とは程遠い生活をしていた。例に漏れず、進学塾なぞに通っていた俺ではあったが、数学&物理はまずまずだったものの、国語&英語はからきし駄目であった。中学&高校時代の読書量というのは、非常に大切だと思う。ものを考えることができるためには、やはり訓練が必要だ。
 で、当然、浪人ということになって学習塾なるところに通うわけだが、そこの英語の講師が「読書」を薦めるのである。入試の英語は早く読み理解することが「訓練」によって可能であることを主張してた。折りしも、TVで「速読」の特集をやっていた。信じられないかもしれないが、ちょっとした文庫本ならば、5分弱で読んでしまう人がTVに出ていた。当然、内容はきちんと掴んでいる。これは「得」だと思った。おなじ一冊ならば、時間をかけずに読めたほうが絶対に得だ。例によって、素直な俺は(これではなかったが)速読の本を本屋で探し出し、その訓練をはじめた。当時の読書メモが無いので正確なところはわからないが、300頁の文庫本を30分ぐらいで読めればまずまずのペースであった。これだと「立ち読み」しても疲れない。金はかからない。時間も少なくてすむ。という訳で、浪人中は、ずーっと本屋での立ち読みが主流であった。

 今では、ずいぶん遅くなったので1時間で100〜150頁というところであろうか。勿論、ものにもよるけれど通勤一往復で一冊のペースで読み進めている。
 人は、一生の間に「何冊読むことができるのか」を考えたことがある。5000冊ぐらいが妥当な線らしい。これを多いとみるか、少ないとみるか、それとも少なすぎるとみるかは、それぞれ。
 云えるのは、「くだらない本と大事な本を同じ時間で読むのはばからしい」ということ。同じ時間であるならば、濃密にすごした方がいい。そのためのひとつの道具が「速読」である。本を読む時間がないとお嘆きの方は、ちょっと試してみるといい。

 だが、しかし、「速読」のきかない本もたくさんある。
 「フィネガンス・ウェイク」、なかなか前に進まない。

update: 1996/08/03
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