俺が一番嫌いな作品がここにある。憎み、恨み、反吐が出る作品がここにある。
シェークスピア著「ロミオとジュリーエット」(岩波文庫)がそうである。これを読者に語る作家シリーズの第3冊としよう。
世界の人口の半分は、男であるのに。そして、世界の人口の半分は、女であるのに。それ以外の人はいないのに。それしか、「出会い」というものがないのに。何故、それを「悲劇」にしてしまおうとするのか、俺は、わからない。
「悲劇」がひとの心を打つのは、自虐の心に囁くからじゃないだろうか。自分のそういう、醜い心、不幸を楽しむ心、ひとの幸せを憎む心、をくすぐるからじゃないだろうか。どこかの、民放の番組のタイトルじゃないけど、「悪魔の囁き」が心に忍び込むからじゃないだろうか。
だから、「囁き」に抗するのは大変なことなのかもしれない、と思うときがある。勝手に悲劇にして、勝手に悲劇の主人公になって、勝手に落ち込んで、勝手に自嘲してしまう。それは、ひょっとしたら、非常に楽なことじゃないだろうかと思う。世の中には、悲しい出来事、理解しあえないためにおこる悲劇がたくさんある。あまりにもたくさんありすぎる。だからといって、小説の中まで悲劇で埋めつくし、それを流布することはどうなんだろうか。そんなことは、敢えて必要なことなんだろうか。と、俺は思う。
「幸せ」なものを「幸せ」であると云ってなにが悪い。
「美しい」ものを「美しい」というのがないが悪い。
「楽しい」ことを「楽しい」というのがなにが悪い。
「好き」なものを「好き」というのがなにが悪い。
「愛」しているものを「愛」していてなにが悪い。
それが、「幸福」というものじゃないだろうか。
何故、わざわざ「不幸」にしなくちゃいけないのか。
それを広めつつある、この作品を俺は憎む。
BGMは、矢野顕子「ただいま」より。
いつか王子様が
きのうの朝まで美人だった
鏡の中にいるブスはだれ?
どうしてこうもちがうのかな?
きのうの数学のテストには
わたしの理想は届かない
どうしてうまくいかないの
今はなんのとりえないけど
わたしの小さな日だまりに
だれか早く気づいてちょうだい
わたしは本当はすなおでやさしいヒトなの
誰にもしゃべらずにあの人の
姿を目で追っていたのに
どうして遠くへいってしまうの?
空の上であなたをのぞく
しあわせそうな笑顔をみて
わけもわからず楽しくなる
わたしは本当はすなおでやさしいヒトなの
きのうまでのことは無かったこと
とりあえずきょうからはじまる
風も光もわたしのもの
いつか王子様がやってくるね