書評日記 第101冊
栄えある、新たな1冊は、ユングの「分析心理学」(みすず書房)です。
ほんの3日前に買ったのですが、あっという間に読み終わりました。斜め読みをしたわけではありません。いままで俺が自得したことが全て書いてあるからです。もっと早くに出会えば良かったのか?いや、そうは思いません。「予定調和」という神秘的な言葉を使いたくなるぐらい、今回のユングの講義は、俺の現状にとってぴったりでありました。しかも、「101冊め」ですからね。これを「奇跡」と呼ばずして何が奇跡なのか。
と、まあ、俺の感動は置いといて、ちょっとだけ内容の説明。
これは、1935年に行われたユングの5回に渡る講義です。ユングは、慣れない英語で易しい言葉を使ってユングの知り得た心理学の考え方を話します。「レクチャー」と「ディスカッション」がセットになって5回あります。1回を90分程度で読みおえることが出来ます。そう、大学の講義と同じ雰囲気を味わえます。
俺にとっては非常に解りやすい講義でした。阪大で聴講した河合隼雄教授の講義ぐらい解り易かったし、得るものが多かった。訳者は入門書としては「人間と象徴」を奨めていますが、この講義録は、ユングその人を知ることが出来るので、俺は、こっちの方を奨めます。
えーと、以下に書くのは、この講義録を第4回まで読んだときのメモです。此れを会社で書いて、帰りの電車の中で、第5回を読みおえました。なんと、まあ、「異口同音」とは、この事でありましょうか・・・。俺は、いつもこのように、個人のメモをとっているのです。
その、不思議なのは、ネットであれだけおおっぴらにやっているのに同僚も家族でさえも知らないということ。なんというか、インターネットって、結局、狭い。ReadMe!のカウンタは正確だろうから、大体、40人弱ぐらいが読んでいるはずだ。そのうち、8人ぐらいは知っている人だから、なんというか、結局あれだね、狭いわけだよ、何云ったってさ。
だから、それほど読まれていることを気にしなくていいと思う。所詮、身内だけの問題にしかならない。
しかも、俺の場合は、書評というやっぱり地味な分野だから、そう、多いはずがない。最初は期待とかしたけれども、あんまり読まれているってのも、誰にでも好かれる文章を書いているってことで、なんか変だ。
もちろん、おもしろおかしい日記なり読み物を書くのが目的であれば、それでいいのだけれど、なんか、リンクを張ったりすると文章自体が変になるし、やっぱり、紙媒体の投影である雰囲気を保ちつつ、という感じでやりたい。だから、読者ってのは、20人前後で十分ではないだろうか。
ユングの講義も15人(注:聴衆は200人、発言者が15人)だと云う。当然、専門的な講義だから、(俺に理解できるのは、俺に専門知識があるからなのか?それとも、そもそも、「聴衆」というものは、その程度が限界なのか。)心理学の人数と、当時そこに集まれる人々(しかも新しい理論であるし)はその程度が限界だったのかもしれない。
でも、教師なりが、教え子に対して目を光らせる程度は、20人が限界ではないかと思う。当然、教師がその20人なりの生徒すべてに好かれているわけではない。好かれる必要もないわけなのだが、教師が、生徒のなんらかのSOSがあったときに、気がつくのは、20人程度が限界ではないかと思う。少なくとも、俺の知っている8人の人達を見るだけで、俺はかなり厳しい。
もちろん、なんらかがあるとは思っていない。でも、もし、そうなったときが来たならば、ご協力申し上げようという程度の余裕は、俺にはあるし、常にその程度の余裕は持っておきたい。「お節介」というのは、そういうことかもしれない。
だから、「意見」をしたり、多少なりとも、相手を傷つけたりするかもしれない。(俺は万能ではないし、俺自身も助けを求めているから。そういうときは、遠慮せずに「意見」してほしい。そのときは、なんか、勘違いするかもしれないけれど、全く考えなしに行動することはない。誰でもそうだけど。)
「情動」に流されることもしれない。こういう、「情動」というような、既に定義されている「言葉」は便利だと思う。「感情」と「感覚」が全く別個だということを知ると、今までの激しい感情と普通の感情との差がはっきりしてくる。今までだと、どちらも同じ「感情」という言葉を使っているので、激しい感情というものは、普段の感情と比較して「激しい」ものという意味になり、普段の感情から激しい感情への移行がスムーズに行われているような感じになる。
しかし、「情動」という、「感情」とは別の「言葉」を定義することにより、いままで考えてきた激しい感情、自分で制御しきれない感情が、「情動」という存在の出現により、制御できる範囲であった「感情」とはっきりと切り離すことが出来る。
つまりは、「情動」とは、制御しきれない激しい感情表現なのであり、そもそもは普通の時の「感情」とは全く違うものであるから、「情動」のみで動くのはその人の本質ではない、また、「情動」のみで行動してしまった時は、それは自分の本質とは違うのだから、そのような行動に対して、あれこれ悩む必要はないのだ、という自己弁護がとれる。
ま、「情動」に走ってしまう直前で自らを制御できなかったことは、恥じるべきことだし、それに対しては責任を持ち、今後の行動の指針とするべきなのだが、その後の行動に対して、つまり「情動」のみを主体にして走ってしまった行動に対しては、これ以上、追求しても、また、追求されたところで、それは制御された感情とは離れたもので単なる「怒り」のみであるから、責任を問われるべきでないし、問うべきではない、ことがわかる。
ま、いわゆる「詭弁」なのかもしれない。しかしだ、心理学というものは、ひとの感情の安らぎというものは、社会生活の中で不安定であるからこそ、そういった拠所が必要なのではないか、また、そういうものだと思う。
もっとも、「詭弁」以前の「自己分析」が重要なのである。(俺がやると、これまで「詭弁」になってしまうのだが。)その「再認識」をすることで、その時、俺が何を行動したのか、何を見失っていたのか、何に対して感情を動かされたのか、「情動」に走ってしまったのか、そのきっかけはなんだったのか、今後、そういう場面でそれを避けるためにはどうしたいいのか、また、似たような場面で被害者を作らないためにはどうしたらいいのか、同時に、自分の気持ちをはっきりし、そして、安定を保つにはどうしたらいいのか、その安定が、より良い結果を産み出す方法であるのか、
そういったもの、すべてを瞬時に「直観」で見切ることができるまで、俺は、俺に対して、厳しくあたる。確かに、辛い作業ではあるが、ひょっとすると、自分で自分に対して深いトラウマを発生させる原因となるかもしれないが・・・生憎、トラウマにならない方法を俺は知っている。誰にでも適用できるとは限らない。ただ、俺は考えた挙句、これぞと信ずる方法をとることに決めている。誰の評価も要らない。俺が俺自身の感情に正直であれば、トラウマにならない。これは、微妙な問題であるので、既にたくさんのトラウマを抱えている人には難しいかもしれない。その点、俺は、やっぱり幸せなのかもしれない。
「幼児期の体験」というものが、今後の人生のすべてを仕切ってしまうと、考えるのは哀しすぎる。なぜならば、幼児期というものは、彼や彼女の意思とは関係無く動いてしまうものだから。
とすればだ、やはり、「幼児期の体験」は、多少の痛みは伴うものかもしれないが、その後の経験や擬似体験、思考形態、努力、実力、感情、などなど、で、十分補えるものだと俺は思う。
勿論、そのような爆弾を抱えていることは肝に命じておくべきだし、ひょんなことで露見してしまうことがあるかもしれないことを注意しておくべきだ。
だから、そういった事実を知って、「注意」しておくことで、今後、至るであろう、数々のそれと類似した事実に対して、冷静に、まさに「思考」を駆使して対処できるのではないだろうか。
そういう、「感情」と「思考」、「感覚」と「直観」の使い分け(これは相容れないものである、とユングも云っている。だから、使い分けるべきなのだ。)の方法を知ることで、自分の人生を謳歌できるのではないかと思う。
確かに、楽観的すぎるかもしれない。現実は厳しい。しかし厳しいからこそ、せめて自分の中には「安らぎ」というものを持っていたい。関係をもつならば、ぎすぎすとした関係でなくて、安らぎをもっていたい。
そういうものではないだろうか。
update: 1996/09/09
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