書評日記 第102冊
時々、ほんとうに時々だが、人と言い争う時がある。注意するにしても、そんな言い方はないだろ、と思う時がある。もちろん、俺が悪いのだけれども、言い方というものを考えてくれ、もうちょっと、「言葉」を選らんでくれ、と思うときがある。そんなんとき、思わず言い争いをしてしまう。後味が悪いことを知りながら。
そういう、言い方の云々を、とある先輩に話したことある。彼は、俺に「そんなことを云ったら、(君に)何も言えなくなるじゃないか。」と云われた。俺は何も云えなかった。俺が、思わず、言い争いをしてしまった時に、思い出す科白である。
相手の言動に自分の考えを添わせてしまうことを、「転移」と云うそうだ。この言葉を知る前は、俺は、「頭を借りる」と云っていた。どちらも、自分の思考がどこかに云ってしまって、無意識に相手の言動に全てをゆだねてしまうわけだ。
相手が本であっても同様の事がおこる。所謂、本へ感情移入の逆転写というところであろうか。本の中の世界、特に主人公の言動が、そのまま俺の中に入り込むことがある。端的に云えば、「影響」を受けることなのだが、ま、無意識的に受けてしまうところが、恐ろしい。
前回、怒ったときは、阿佐田哲也の「麻雀放浪期」であった。今回は、山口猛の「松田優作」(教養文庫)を読んでいるときであった。
さて、俺が松田優作を知ったのは、「ブラック・レイン」である。伊丹映画祭で観たのが最初で、その後、TVでもう一度観た。あとは、夜中の映画で「家族ゲーム」。そして、ビデオで「探偵物語」を2、3本。それだけなのだが、松田優作という俳優は、俺にとって強烈な印象を持つ人物である。
彼の「狂気」の演技は迫真ものであるのは、誰もが認めるところであろう。「ブラック・レイン」での佐藤役は、まさしく松田優作の中から迸る凶器をそのまま出したものかもしれない。この本を読んで、はじめて知ったのであるが、彼の死は、癌であった。俺は、それまで、彼は自殺をしたと思っていた。
ちなみに、夏目雅子も自殺だと思っていた。
なんか、俺には、そーいう熱意のひと達の最期は、「自殺」という演出が施されるのが一番と、考えていた時期があるらしい。彼と彼女が、自ら死を選んだわけでないことに、俺はひとつの安心を得た。
となると、彼、松田優作の「狂気」の演技はどこから出てきたのであろうか、と考える。俳優という仕事に対する「ストイック」な態度。真剣に俳優というものに立ち会い、自分をより高めていく態度。自分を追い詰めることにより、自分を理解し、「自信」を高めていく態度。そういう、常なる「ストイック」な態度が、彼の演技を「狂気」へと誘い、にもかかわらず、人間臭さが漂うものとなった原因に違いない。
「ストイック」というのは、ある種の「怒り」を持続させることである。他人を退け、自分の殻に籠り、ひたすら他人に背を向けつつも、かっと見開かれた目は、ひとを鋭く見つめている。
彼が、このジャーナリストである山田猛、ただひとりを選び、饒舌であったことが、俺は非常によく理解ができる。
そういう、彼、松田優作の想いが、今日の俺に「転移」してしまったんだと思う。
update: 1996/09/09
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