書評日記 第146冊
妖星伝 半村良

 ひとつ気づいた事がある。何も気負うことはないということ。この書評日記、いろいろな本を紹介してきたけれども、肝心のものが抜け落ちているところがある。そう、俺に対して抜群に影響を与えてきた漫画群が抜け落ちている。確かに28歳の俺に影響を与えてきたのだから古い作品が多いかもしれない。また、漫画の影響下に入っていた時期が多いのでアニメなり漫画本が多いの確かなことである。何故それらを紹介しなかったのか?まあ、気負っていたというところが本音であろう。
 俺の人生において半村良の「妖星伝」は大切なポイントである。なぜならば、「妖星伝」を読んでその時、俺は自分が歴史の中で抜け殻であると思い込んでしまったし、「夢」を失った自分に対しての唯一の慰めを得た、といっても過言ではない。それに対し、友人の言葉は、
 「人生を変えてた本が「妖星伝」では恥ずかしいよな。」
 というものであった。彼はどういう思いで言ったのかわからない。軽い気持ちであったのだろう。彼に悪気がないのは確かだ。ただ、それを思い出す度に、俺に対して影響を与えてくれたたくさんの漫画群を紹介することに対してちょっとためらいを持ってしまう。

 で、なんでこんな話をするのだろうか説明しよう。
 現代の若者が影響を受けたものというのは実は、TVアニメが一番大きいのではないか、と気づいたわけだ。俺が小学3年の頃に、「宇宙戦艦ヤマト」があり、その後に「機動戦士ガンダム」があった。両方とも、俺には大切なTVアニメである。また、通学になれば、「うる星やつら」があり「さすがの猿飛」があった。これは俺の恋愛感から外せないキーポイントである。また、書評日記を開始した直前に「新世紀エヴァンゲリオン」をビデオで見ている。これも今の俺を形成するのに外せないポイントである。
 そういう今となってはなつかしいTVアニメは、俺にとって大切な作品であり、示唆するものであった。
 多分、これを読んでいる読者もそれらのTVアニメを知っていると思う。そう、で、思ったのだが、これらを見ているという共通体験はこれからの日本に対して何を意味するのだろうか、ということ。ひょっとすると、歴史書なり哲学書よりもずっと身近に感じているこれらのTVアニメが俺達に与えた影響というものは、思っているよりもずっと大きいものではないかということ。
 普段は口には出して言わないし、いわゆる学生時代に見たものを再び考える機会なんてものはほとんど無いと思う。まして、今考えれば、稚拙(?)とも言えるような、また、世の大人達から白い目を見られるような趣味(?)を持っていることを知られることで、自分が下に見られるということに恐れを感じてはいないか。そういう鬱屈した感情が何か妙なところで若者の感情を露悪な方向へ導いてしまっているのではないか。せっかく思春期なり青春時代に良いTVアニメを見て良い影響を受けたのに、それはまさしく、大人からの夢の贈り物であったはずなのに、それを忘れようとすることで大人社会に組み込まれようとすること。それをして既存の大人社会への義理を果たすこと。それは、果たして、これからの日本の社会にとって良いことなのだろうか。そういう疑問がふと湧いて出た。

 で、本日の一冊は半村良「妖星伝」である。
 先に示した通り、俺が「夢」を失ったとき、これを拠り所にして生きたといっても過言ではない。「妖星伝」のポイントは、江戸中期に皇帝が地上に生まれるところから始まる。淫売な鬼達に守られて、皇帝は地上を去る。地球は皇帝の揺りかごであり、皇帝の去ったあとに残るのは、単なる抜け殻の人間達であった。
 何を為したいのか。俺の人生とは何のためにあるのか。「夢」を追い求め、「夢」を実現させるためにやっきになっていた頃の俺は、「夢」に敗れた。自らの焦りの感情に耐えられなくなり、そして自滅した。何をやってもうまくいかない時期、何もかも捨ててしまって「夢」のみを追い求めていた時期に「夢」そのものが叶わないこと、また、自らの実力が無く継続力の乏しさにより、もう一歩も進むことができなくなった時、現実的に生きるために「夢」を捨てた時、俺はほんとうに抜け殻になった。この時「妖星伝」が俺を救ったといっても過言ではない。消極的ではあるが、死ぬよりも生きることを選んだこと。ぼーっとであるが生き続けることを選んだのは、決定的な事をしなかったのは、これがあったお陰といっても過言ではない。

 自らを形成しているものに対峙する。それを受け入ることこそが自らを理解する第一歩だと思う。

update: 1996/09/09
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