書評日記 第145冊
やばい、鬱状態に入る。昼間が躁状態すぎたことを、そして、やたらに感情が無かったことを、やたらに幸せだったことを、やたらに何かを書いたことを忘れていた。先ほどまで、ずうっと気分が良かったのに今は全然だめ。全く、なにをする気力も起こらない。ただ、やたらに死にたいだけ。
「死」というものに、「死」という感情に直面した時、俺はどうするんだろうか。こうやって鬱状態になった時に考える。いや、考えることすらできなくなっている。言葉が詰まる。ただ、何もせずに眠りたくなる。日記も書きたくない。人とも話したくない。話したくはないけれども声はかけて欲しい。寂しい肩を抱きながらインターネットに繋ぎ、何かを探す自分がいる。何か心暖まる日記を文章を探す。彼や彼女の中に存在する自分を探す。
で、今、何故、こういうものを書いているのか。あなたは不思議に思うかもしれない。いつもの俺であれば、「今日は休み」とふて腐れて寝てしまう。その方が健康にいい。わざわざこうやって恐い感情の中でおそろしい言葉を吐かなくてもいい。自分の中から無理矢理言葉を生み出すことはない。普段ならば、こういう時は書評日記は休みなのだ。そう、この書評日記は前振りなしで突然休む。別に誰が楽しみにしているわけでもないし、結局のところ俺の日記なのだから、それに休んだところで抗議のメールも来ない。ま、来てもらっても休むには違いないのだから、来ても困る。
じゃあ、何故、今日は書いているのか。自分でも良く分からない。誰に助けを求める訳でもなく、そう、こういう気分の時は、布団にもぐって泣いているのが普通だ。一筋の涙が俺をかわいそうに思ってくれる。誰も気にしない自分を自分だけが気にする。ほら、涙があふれてくる。右の頬はチックで揺れる。ぴくぴくしている頬を気にしながら文章を書き続ける。
そう、別に俺は強いわけでもない。図太いわけでもない。感受性が無いわけでもない。まあ、対人的には強く保っているし、メールを交わせばそういう面しか見えないし、日記からはそういう面しか見えないと思う。まあ、いいよ。言葉が見つからないし。
情熱だのなんだので、日記を書いているわけでもないし、物語とか童話を書いているわけではない。ただ、そう、読んで欲しいというか、皆に受け入れられたい、愛されたい、楽しく過ごしたい、話がしたい、そういう単純な仲間意識だけを求めて何かをやっているに過ぎない。なのになんで、こうなってしまうのかわからない。
時々、むちゃくちゃ強い言葉を発してしまう時がある。今、考えるとても恐ろしいし、それが強ければ強い程、今の状態に陥ってしまうとどうしようもない自分だけが残る。
なんでなんだか良く解らない。言わなくてもいい事をすらすらと言ってしまう自分がいる。非常に明快で非常に素直に感情を表現している自分がいる。だけどもそういう素直さ、人間の本質というもの、また、人類が求めるものといわれるものは、結構、恐いものなのかもしれない。刹那的な快楽に身を任せてしまいそうな時がある。また、独り寂しい時に、単なる仲間を求めたくなる時もある。だけども、普段は、そう、いつもはあまり求めない。そういう冷たさというか醒めた自分がいる。
どちらも同じ自分だし、どちらも俺の求める自分であるから、俺はどちらも捨てはしない。また、決定的に人を嫌いになることはない。嫌いになるのは、その人の弱さがそのまま放置されている時が嫌になる時がある。人はそれほど強くない。俺ほど強くない。そう、俺は強くみえるみたい。強く出るときにはものすごく強く出てしまうから、そして、こうやって独り寂しいときは、独りで立ち直ってしまうから、「強い」と言われる。
はあ、どうやら、感情が戻ってきた。頭の芯が暖かくなってきた。
そう、俺はいつもこうやって、鬱状態を切り抜ける。どうしようもないときには、歩いたり、ふて寝をしたり、文章を書き殴ったり、そういう自分を発散させる。
別にあなたが悪いわけではないのです。そう、いろいろな事情があって、勝手に落ち込んでいるだけ。自分勝手な自分が嫌になる。もっと素直というか、もっとカモフラージュが上手くなって自分を抑えることができればいいのに、と思う。もっと馬鹿になりたい。なんで、こんなにいろいろな事を知っているのかと思う。たくさんのことを知りすぎて、たくさんのことを覚えてしまう。記憶が溢れそうになる。楽しいやさしい言葉を思い出す。
歩みが早い者は不幸だ。もっと遅くなればいいのにと思う。でも、できない。何故だろうか。だって、それが俺であるから。歩みが早いのが俺であるし、どんどん先に進んでしまうのが俺であるから。俺は俺についていくのが精一杯なんだ。なにもできない人がうらやましくなる。日々を生きている人がうらやましくなる。別に劣っているわけでもなく、悪いわけでもない。ただ、俺は、そういう人達をみると、哀しくなってしまうだけ。手を出せば払いのけられる。そういうことが何度も続く。それでも馬鹿のように差し伸べる。よくわからない。自分でもよくわからない。何かを求めているのだろうけど、確かに俺は自分の求めているものを知っているはずなのに、イメージができない。でも、今、やっていることをずーっと続けていくことで得られることは確からしい。
認められたい、誰に?両親か、弟か、恋人か、先生か、上司か、それとも読者か?一体誰に認められたいのだろうか。誰に誉められたいのか。一体俺は何をしているのだろうか。俺は自分の求めるものが時々わからなくなる。霧の向こうには確実にあるはずなのに、晴れている時ははっきりと見える。だけども、霧に隠れている時は、ものすごく不安になる。でも、それはそこに「在る」もだから、大丈夫なはずなのに、それでも心配になる。
再び、腕が冷たくなる。やっぱり、こういう対処療法では無理みたい。もうそろそろやめよう。これをUPして今日はおしまいにしよう。
あ、そうそう、作っている日記を見ても俺は面白くない。だって、それって一体何?何を求めているわけ?・・・まあ、俺が求めているのは、本当の自分と、本当の仲間。本当というものは何なのだろうか。絶対基準があるわけ?人が人として生きているとき、人が人を愛するとき、それは相対的な価値で比較できるものなの?それとも、絶対的な「愛」というもので相手を愛することができるのか?誰もが同じ気持ちを共有しているんじゃないの?誰もが同じ気持ちで暖かくなるんじゃないの?誰もが幸せになれる世の中というものがあるんじゃないの?
A.H.マスローの「創造的人間」を読んだ。
もっと早く読めば良かったのかな。よくわからない。俺は人から借りた本はあんまり読まない。ひどい話だが事実だ。何故か借りた本は俺の趣味にあわない。最初の頁をぱらぱらとめくって、3分の1程度読んでおしまい。
珍しく2日間で読み切った。借りたのは3週間ほど前だけど、ずーっとほっぽってあった。なんだ、俺のやってきたことがすべて書いてあるような気がした。いや、事実書いてある。「愛」だの「正義」だの、男女の関係だの、宗教だの、神話だの、ま、いろいろ。
いまだ心理学は奥が深いようである。厳然として「科学」である其れは、科学として扱われるべきものだいだし、人類が保留にしてしまった問題に立ち向かいつつある。同感。そう、理系のあほドモの作ってしまった科学は何か欠けてしまっている。文系のばかドモが作ってしまった社会は金の亡者になりつつある。人類は滅亡の危機に面しているかもしれない。そう書いてある。同感だ。
一体、俺は何をすればいいのだろうか。一体、君達は何を恐れているのだろうか。
ただただ足踏みを繰り返して、地固めをする。固くなった大地には何も生えない。雑草すら生えない。水も染み込まない。乾いてかちかちになった大地に対して君達は何を求めるのか。
俺は恐い。ただ、そういう君達が恐い。
update: 1996/09/09
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