読んで直ぐの本をこうやって紹介するのはあまり良くない。
というのも、読み終わった直後というのは、筆者に同意し過ぎている状態であって自分の考えがうまくまとまっていないからである。きちんと時間を置いて沈殿したものが、自分の考えになる。そういう慎重さが必要なのであるが・・・まあ、いいでしょう。河合隼雄教授の言葉ならば、大丈夫です。いろいろ面白いんで直ぐに紹介したくなっちゃうわけですね。はい。
で、河合隼雄著「とりかえばや、男と女」を紹介しよう。
ええと、面倒なので、冒頭の部分を書き移し。
わが国の中世に生まれた『とりかえばや物語』は、全世界の中でも稀有な物語である。主人公となるきょうだいの男の子と女の子が、それぞれ、性を逆転させて女と男として育てられる。そして成人したときには、男の子は女官として東宮(女性)に仕える身となるし、女の子は立派な男として結婚までする。いったい、そんなことは可能なのか、男女の「性」ということは、いったいどうなっているのかと思わされる。あるいは、このように聞くだけで、荒唐無稽の昔の「お話」として一笑に付したく人もあるだろう。
・・・というわけで、一笑に付したくなる人はお帰り下さい。解りたい人だけが残ってください。
じゃあ、話を続けますね。
内容は、河合隼雄が心理学の面から「とりかえばや物語」を分析するものである。再三この書評日記でユング心理学を取り上げているからわかるだろうが、男性には内部的な女性心理として「アニマ」が、そして、女性には内部的な男性心理として「アニムス」が存在する。そういう、4人(?)の関係を踏まえて、「男性らしさ」や「女性らしさ」という二元性がいかに人間の自由を狭めているか、また、男女の関係について、「性」との関わり合い、「愛」というものについて、そういう諸々のことが、この本にたくさん書かれている。
この辺、いろいろありすぎるし、とてもわかりやすく書かれているので、興味のある方は、一読されることを薦める。
で、俺の気がついた部分を書いてみよう。
先にも書いたが、男女の関係というものは内部心理を含めて4人の関係に昇華される。つまり、表面的な男女の関係に限らず、それは、内部的には男女を交換した関係にもなるし、また、男性のアニマと女性の関係であれば「女女」の関係であり、男性と女性のアニムスの関係であれば「男男」の関係である。
そう、それで俺はちょっと気がついたわけだ。最近、ばたばたやって、「好き」だの「嫌い」だのという恋愛感情を一番表面に出して暮らしているが、その中で、男性という「性」を持つ俺が、男性にも女性にも平等に惹かれてしまうのは、無理もないことであった、ということに気がついた。いわゆる、性衝動を抜きにして考えてしまえば、誠の意味で精神生活を前面に出したとき、「たましい」に触れるならば、俺の対象となる相手の内部心理を考えたときは、彼の「アニマ」に惹かれてみたり、また、彼女の「アニムス」に惹かれてみたいりしたわけだ。ひょっとすると、それは、フロイト云うところの「イド」の惹き合いだったのかもしれない。
あと、やっぱり、ロマンチック・ラブというものは、「苦しい」ものだということが、実体験できたし、河合隼雄の理論に従えば、苦しいことにならざるを得ないわけだ。結婚に関しても、それは恋愛の終着ではなく、始まりであること。長く恋愛を続けていこうと思えば、他の女性にも目を向けて愛さなくてはいけないこと。トリックスターは、「たましい」に惹かれるものだから、「たましい」という第三的な価値に対して免疫のない男女という二元的な社会では、非常に苦しい立場に立たされること。などなど。
ただ、それは、苦しいことでさえ、楽しまなければいけない、いや、それこそが人生の楽しみでないか、ということ。そして、人生の目的とか目標とかは、無意味になりつつあること。終着駅や結果が問題なわけでなく、人生をいかに生きているのか、人生の時々に対していかに真剣に生きるかが、自らの人生を謳歌できる秘訣であるということ。
つまりだね、俺は「小説家」になりたいと公言しているわけだが、ちょっと言い方が間違いで、俺は「小説」を書き続けたいといわなければならないわけだ。そう、高校の時に「竜馬がゆく」を読んで日記に書いたことを思い出した。
「死ぬるときは、前に倒れたい。」
常に前進しつつある身ならば、いつ朽ちようとも、後悔はしないし、それこそが、自らの人生において頂点なのではないだろうか。
・・・と改めて思った次第。