書評日記 第161冊
日記の虚実 紀田順一郎
ちくま文庫

 人は何を理由に日記をつけるのだろうか。人は何を未来に残して日記を書き、残すのだろうか・・・なぞとは考えずに、まあ、ネタ本のために随分前に買った本です。いやあ、買ってしばらくほおっておいたのですが、まあ、その間にも俺の環境はいろいろかわってしまったし。ちょっと、思い出して読んでみました、というところでしょうか。

 タイトル通り「日記」に関する考察を紀田順一郎が綴ったものです。ちょっと参考のために目次だけ列挙してみましょうか。
 まあ、いわゆる古い人ばかりなのは、最近の日記では、発表を意識して書かれたものが多いため(筒井康隆の「腹立半分日記」など)研究の対象になりにくいからでしょう。
 そう、余談ですが、紀田順一郎は、出久根達郎と同じく古本屋関係なのですが、紀田順一郎の方は研究っぽい趣があります。出久根達郎のは、小説っぽい感じの文章が多くなっています。
 んで、まあ、感想というよりも、この日記界を省みて逐一比較してみたら面白いじゃないでしょうか・・・なぞと思ってこれをかいているわけだし、読んだ理由もそういうことです。ま、いろいろ解かりましたけどね。

 日記を書く時間帯によって、その日記のスタイルが確実に分類されるようです。まあ、普通、一日にあったことを書くし、大抵の人の更新時間を見ると夜の方が圧倒的に多くなっています。これは、一日を振り返って、それを書き留めるというタイプに属するわけです。
 その中で顕著なのが、その日の食事を書き綴る日記ですが、確か「今日の食事」という、名前がそのままの日記もあったし、最近の「喫煙日記」はそれになりつつあります。
 そうでない場合は、一日で印象に残ったことを順番に書くわけで、まあ、インターネットの性格上、コンピュータ関係の話題が多くでるのもその傾向なのかもしれません。
 あと、朝に日記を書く場合は、一晩寝て、前の日にあったことを思い出すわけで、食事のような些末なことは抜けてしまい、かなり文章化されたものが顕著になります。
 そうそう、この場合、夜の営みが時間的に一番近いし、印象に残っているので、性交の記録を綴ったものが多いようです。
 あと、この日記界の場合、公開という大前提があるので、まあ、端から見れば日記とはいえないものがたくさんあります。
 いわゆる、この「書評日記」も含めてウケねらいのやつですね。

 まあ、様々なスタイルでそれぞれの日記を書いているわけですが、この本を読んで気づいたのは、「日記というものは、自分の人生において転機である時に書き始めることが多い。」ということです。
 果たして、俺が高校3年の時に書いた日記は、東京理科大の受験をした直後から始まり、翌年の大阪大学合格直後まで続いています。まさに、今思えば、そして手元にあるものを読み返せば、「転機」でありました。
 自分の考えを文章化するということは、自分の対人化させることに他なりません。日々綴り時々読み返すことで、自分の軌跡を正確に追うことが出来、自分を客観視することができます。そういう作業は、「日記」というものでしか得られません。また、「日記」というものは、そういう時にふと書きたくなるものだと俺は思います。
 そう、インターネットが流行って、日記というものが流行っているから、ちょっと毎日書いて公開してみようという軽い気持ちで書いているあなた。あなたは、そういう自分を見つめる良い機会を得たことを自覚しておいて下さい。そういう一種泥沼の世界に足を踏み入れてしまったことを、自覚しておいてください。
 
 まあね、交流だとかなんとか云っているけど、結局のところは自分との対話じゃないでしょうか。少なくとも俺がこの「書評日記」を書いているのは、書き溜めも含めて、日々思ったことを本に託して綴っているわけです。諸君諸嬢は、そのお裾分けなわけね。
 そんなわけで、まあ、「詩」でも「駄洒落」でもいいんだけどさあ、貴重な時間を割いているわけだから、もうちょっと真剣にやったらいいんじゃないの?って思う次第。

update: 1996/12/05
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