書評日記 第162冊
ねじまき鳥クロニクル 村上春樹
新潮社

 河合隼雄の対談集「心の声を聴く」関連から読み始めた本。村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読み終わったので紹介しよう。
 最初から、余談になるが、俺の本読みのスタイルは、こういった「本」の中に出てくる「本」を追って読み進めることが多い。まあ、本屋さんに行って、好きな作家の新刊を買いあさったり、なんとなく気になった本を買ったりすることも多いのであるが、読み終える比率は圧倒的にこういった「本」から引き出してきた「本」の方が多い。これは、「本」の中で紹介されている「本」というものは、一度その作者によって吟味された上で紹介されているわけだし、俺としてはその作者を信用して読んでいるわけだから、その作者が好む「本」ならば、ま、必ずしもとは言えないまでも、俺の好む「本」になるに違いないと思うからである。
 して、今回の結果であるが……、いわずもがな、面白いから紹介しているのだよ。俺を信用して、河合隼雄関係で読み進めるのも面白いかもしれない。

 さて、内容をちょっと説明しよう。
 オカダノボルという男が奇妙な体験をする話である。うーむ、それだけ。はっきり云って、内容を非常に説明しにくい物語だといっていいだろう。それなりのテーマ性は含まれるのかもしれないが、それはあくまで「それなり」でしかない。これを説明しよう。
 
 「ねじまき鳥クロニクル」は、3部作になっている。一冊500頁弱だから、長編の物語といえるだろう。そんななかで、俺が最初の1冊めを読み始めた時の印象は、「ここには何も書かれていない。」というものであった。そう、単なる事実や、心象風景がだらだら書かれているに過ぎなかった。しかし、俺はむしろそれを面白いと思った。何故か?
 何も書かれていないということは、読者は勝手に何かを創り出さなくてはいけないのではないだろうか。もちろん、何も創り出さなくても、それなりに面白いように出来ているし、その筋を追うだけでも十分楽しめるようにできている。しかし、ちょっと読み進めてみるとわかるのだが、誰でも経験したようなことが、ぽつりぽつりと書いてあるのだ。何も書かれていない、作者が何を云いたいのか解からないという、不思議さは残るものの、読者はそれぞれが自分の中から読みたいものをその物語から勝手に創り出して、それを楽しむ、そういう読み方ができる……いや、そういう読み方になるような物語だと思った。
 果たして、読み進めるに従って、その考えは確信に変わった。いわゆる、登場人物は読者にとってなんらかの象徴であり、なんらかの現実ではないかと思えるような感じになってきた。
 登場人物に素直に感情移入ができる状態なのかもしれない。村上春樹自身は、何を主張するわけでもなく、単に舞台と登場人物を配置させる。そして、その登場人物に動いて貰う。それを動かすのは、未知なる読者の望みであって、村上春樹ではない。彼は、それを描写するだけに過ぎない。そういう安心感がこの物語にはある。

 物語というものは、その文章自体で何かを主張しようというわけでない。何か感じた事や、伝えたいことを、ゆるやかに象徴にして、しかし、その印象をはっきりとさせて、相手、つまりは読者に知らせていく形式である。つまり、考えるのは作者ではなく、読者なわけだ。それぞれの読者は、自分の経験に突き合わせて物語を読み進め、何かに気づく。
 そういうところに、物語形式の小説や神話の面白味があるのではないだろうか。

 そうそう、俺の個人的な感想といえば、まあ、3冊めの途中。ハッピーエンドになることを強く願っていた。
 実際は……、まあ、現物にあたってみて下さい。きっと何か「救い」が得られるでしょう。

update: 1996/12/07
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