書評日記 第167冊
太郎 細野不二彦
小学館

 推考しろ、と云われたって、別に日記なのだから、推考する必要もないと思うのだが、いかがなものだろうか。まあ、俺の場合は、「書評」ということで、「本」を中心に扱っているし、以前にも云ったけど毎日の生活の中で一番印象に残るものといえば「本」なのだから、これを中心にして日記を書くのが普通なんだろうなあ、と思う次第。そうなると、「駄洒落」を毎日書いている人は、駄洒落を中心にして人生を送っているのだろうし、「意味不明」を書いている人は、意味不明を中心に人生を送っているのだろう……、なぞと思うのは短絡的すぎるだろうか。まあ、TVを中心にして送っている人が一番くだらないような気がするが。

 果たして、この書評日記のスタイルも半年の間いろいろ変化してきたなあ、と思う。第一人称を「私」から「俺」にした。GIFでのスキャナ画像をやめた。あらざることか、日記の内容が、本とはかけ離れてきた。まあ、一応、「書評」というタイトルが付いているわけだし、また、本を読むペースもさほど変化していないから、着実に「本」は蓄積されている。
 いつかは辿り着くのかもしれない地に、俺はどれだけ近づいたのだろうか。
 でも、まあ、不思議なことにその手の不安が少ない。何か妙な自信がみなぎるのは、単に楽観的なだけだろうか。やだなあ、鬱状態になるんだろうか。そんな不安をちびっと持ってみる。

 さてと、本日紹介するのは、細野不二彦の「太郎」。
 最新巻が最近出たばかりである。
 ちょっと説明すると、いわゆる、ボクサー漫画である。吉野太郎というサラリーマン&ボクサーが、その二重生活を続ける話である。
 この巻は、ちょっと面白い。というのも、吉野太郎が、ボクサーとして「変化」を迫られる話だからである。

 主人公である吉野太郎は、いわゆる「優等生」である。それが、サラリーマンからボクサーへ、教科書通りのボクシングスタイルからデトロイトスタイルへ、様々に変化する。
 同時に、細野不二彦自身も変化している。少年漫画から青年漫画へ変化している。その狭間の時期は苦悩の日々であったと思う。ある程度地位が確立してしまっている少年漫画のスタイルに飽き足らず、青年誌への連載を求め、絵柄やストーリーや色合いを変化させる。
 様々に変化をするけれども、中心にあるのは吉野太郎であり、細野不二彦である。彼から出てくるものは、彼の真髄より出るものだからこそ、彼として独立しているし、彼自身の魅力が見えてくる。
 表面上は変化しているけれども、内部にある何かは変化しない。変化しないからこそ、積み重ねることにより成長する。成長すれば、いずれは、何かに当たるのではないだろうか。何かを掴めるのではないだろうか。そんな気がする。

 毎日、こうやって書いていれば何かが掴めるのではないかと思う。それは、毎日続けてやることが大切なのであって、毎日大量に吐き出すことが重要なのだと思う。こうやって、書くうちに自分の姿が変化する。書き&読みの二重の動作を一度にこなし、書き進める。
 そう、俺には推考はいらないのだ。単に誤字脱字だけ直していればいいと思う。
 書き終わった時は、自分の何かが変化している。真剣にやれば、何かが分かる。それは思い付きではなく、自らの再発見だと思うのだが、諸君諸嬢はいかがなものだろうか。

update: 1996/12/12
copyleft by marenijr