書評日記 第186冊
晴れてジャンクフード屋に到着。チーズバーガーセット412円を支払い、2階席へ行く。
ポテト……ぼそぼそしているだけで、塩味が感じません。
チーズバーガー……見事なほど味がない。どうやら旨みさえないようです。例えるならば、マシュマロ風の食パンを食べているような味気無さ。うーむ、難しいなあ。ケチャップの味がかすかにするだけで、美味いとも不味いとも思わないのは、ちょっとまずいんでないかなあ、と思う次第。
味覚が無くなり始めて3週間が経ち、年末に舌の痛みを感じて1週間にならんとするけども、一向に直る気配は感じられない。
舌にかゆみを感じる。湯を飲むと多少おさまる。お茶とかコーヒーが一番美味しいと感じるのは当然のことみたい。
唾液は水っぽい。唇がやたらに乾くものだから、舐めってかさかさになる。
喉には異物があるようで、唾を飲み込むときに違和感を感じる。これは、自律神経失調性の症状なのだが、その本に味が無くなるとは書いていなかった。
寒くはないのだが、微熱を感じて寒気を覚える時がある。
体温は36度7分。大学時代は、35度8分が平熱だったから、身体が熱いのも確かなことかもしれない。でも、疲れは感じられず、一日一度は歩かないと気がすまない。
そうそう、身体の変調(?)に観念したか、右足の水虫が死滅した。夏以来ひどくなっていて、一時期は足の裏の3分の1を占めるほどになっていたのだが、今は微かに後が残るのみ。痒みはぜんぜんない。ちなみに、薬等は一切つかっていない。強いて言えば、毎日シャワーを浴びるようにしたことだろうか。
足の裏の痛みをおざなりにしてはいけない。悪夢の原因になるのは心理学の常識で、それがもとになって生活態度&言動にも影響がでてくる。ひょっとすると、それが原因で……とも思ったが、うははははは、俺はいつでも筒井康隆風に変貌できるのは、確かなこと。まあ、「呆れ」の部分が多くなったし、なんとなく吹っ切れた感じもあって、その辺は「自由」にやることに決めた。
昨日の夜、鬱病に襲われる。久しぶりだったので、自分が躁鬱の気があるのを忘れていた。なんだか不安になって、舌が痒くて、お腹が痛くて、涙して寝た。
そういえば、俺は痛みに強い方らしい。らしい、というのは、自覚が無いからだ。
大学3年の時、盲腸になったが、午後10時頃から腹痛を覚え、午前3時まで我慢していた。何度が吐き、それでも病院に行こうとは思わず、のた打ち回って苦しみを堪えた。まあ、以前にも同じような経験を幾度となく繰り返して(胃炎だったらしい)いた。一晩寝ればなんとかなったものだ。
だが、さすがに午前4時、自分で救急車を呼んで、独りで病院に行った。手術をしたのは午前7時で、それまでは検査のために麻酔を打って貰えなかった。
ちなみに、盲腸は真っ白になって破裂寸前だったそうで、腹膜炎直前の状態だった。ものは、池田病院に保管されている。
相当痛かったはずだ……たぶん。
とかなんとか云ったって、人の痛みなんて解かるはずも無く、こうやって味覚の無い状態に苦しんでいると云ったところで、同情が欲しいわけではない。
じゃあ何が云いたいのか。
うーむ、晴れて身体障害者になったことを内心喜んでいるのかもしれない。
人は「ショック」を受けて「混乱」する。そして「悩み」、「変化」をして、「受領」する。
それを如何に繰り返すか。如何に「混乱」に対して、「悩み」抜くかが人間を大きくする。悩みが浅いと、「受領」するものは中途半端でしかない。中途半端の解決は、中途半端な幸せ&納得しか産み出さない。
俺は半端なことが嫌いなんだろうと思う。
この半年間、「ショック」の度にきちんと悩んできた。
だから、こうやってきちんと立ち直っているんだと思う。
……その証拠に味覚を失った。
そうそう、この本を読んでいて、河合隼雄の本を読んでいるような錯覚に陥った。果たして、「癒し」の部分で、大江健三郎と河合隼雄は同じことを言っているし、彼も河合隼雄を意識している。
ちょっと「人生の習慣」について説明しよう。
考えることこそが、人間を大きくするし、魅力的にすると思う。何も考えずに、悩む時に中途半端な悩みをして満足し、安易な結論に飛びつくのは危険であるし、後悔も大きい。
勿論、母親の云うように「人はそんなに強くない」のかもしれない。
ただ、言えるのは、強くないからこそ強くなろうとするんじゃないか、ということ。
俺が、ここまで強いのが不思議でたまらない。
どうして、自殺をしないのか不思議でたまらない。
でもね、「光」のように、何かを知ることの喜びを本能的に知っているからではないかと思う。そして、何かを伝える喜びを知っているからだと思う。
果たして、俺の家族は「癒しの場」なんだろうか。
家族って一体なんなのだろうか。
update: 1997/01/06
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