書評日記 第187冊
トットの欠落帖 黒柳徹子
新潮文庫

 実は黒柳徹子の本を読むのはこれが初めて。
 高校生の時に、母親が「トットちゃん」シリーズ買って、読むのを薦めたが読まなかった。
 別に、黒柳徹子が嫌いだったわけではない。むしろ「徹子の部屋」は好きだったし、彼女のユニセフの活動には共感を持っていた。

 母親は俺に何を望んだのかは今となってはよくわからない。
 でも、普通の家庭&結婚を息子に望むのに際して、黒柳徹子は妥当ではないと、今の俺は思う。
 だってねえ、彼女は結婚はしていないし、特殊な子供時代を過ごしたし、決して平穏な人生とは程遠い女性であったわけだから、その人の本を薦めるのは、見当違いではなかっただろうか。

 果たして、俺は黒柳徹子を美しいと思う。
 ユーモアというものを知っているし、これは昔から思っているのだが、「赤毛のアン」のアンそのものではないかと思っている。
 確かに、学校での成績は良くなかったかもしれない。集団行動が出来ずにあちこち走り回ってきたのかもしれない。
 でも、彼女が本当の意味で子供のことを考えているし、ユニセフの活動を広げていこうという真摯な態度に素直に共感するのは、別に悪いことではないし、恥ずかしいことではないと思う。

 俺以外の人は、この本をどう読むのだろうか。
 黒柳徹子を、変わった女性として見るのか。豊かな女性だと見るのか。楽しい友人として見るのか。
 俺は、この人に追随したいと思う。本気でそう思う。

 考えてみれば、俺の人生「勘違い」が多い。色々な本を読んでいるから「物知り」なように見えるが、日常生活では相当勘違いをして過ごしているような気がする。
 俺は「勘違い」によって、自分の都合の良いように解釈したり、逆に物事を深刻に考えたりする。後で聞いてみればたいしたことが無いことで、人は笑い話ですます問題なのかもしれない。
 でも、俺にとっては真剣な話で、他人とっては些細なことであっても、日常生活では詰まらないことであっても、俺にとっては重要なことなのだ。
 逆に、既に答えの出ている問題に対してウダウダと議論を重ねるのは好まない。解ればそれでいいし、解らなければそれでおしまい。あとは、各自で気持ちの整理をして下さい、というところだろうか。

 話は変わるが、今の俺は小説を書いていいのだろうか、と思う。
 大江健三郎は、彼の転機に即して小説を書いた。
 俺の転機は……今のような、更に続くような。
 
 つまりだね、俺が心配するのは、今の俺がこの状況を利用して書いた小説は、あなた方の印象が強烈に出てしまうわけなのだが、それでいいのだろうか?と思っている。
 柳美里のように裁判で訴えられることは無いだろうか。
 
 ああ、うん。
 俺は人の過去を知り過ぎているわけ。何故なんでしょうか。メールで過去を話してくれるのは、俺に何かをやらせたいわけ?
 それも、複数の人の過去を知っている俺は、一体何者なんだろうか。しかも、他人には話せない過去をぼろぼろと知っている。

 しばらくは、状況を静観という状態です。
 何かを待っているのは確かなことです。
 味覚が無くなったのも別な意味があるような気がします。

 難しい。本当に俺の人生は難しい。

update: 1997/01/06
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