書評日記 第190冊
一体、俺はどうなっちゃうんでしょう、というのが最初の感想でした。
あまりにも適切な「本」と「経験」の配置に吃驚します。これを偶然というのか、必然というのか、今はよくわかりません。
ただ、科学信奉者としては、なるべくならば「神秘的な」という形容詞を使いたくありません。でも、「至高経験」といい「時間軸のずれ」といい「必然なる偶然」といい……難しいところです。
云えるのは、偶然にしろ必然にしろ、それらの体験をしたからこそ現在の俺が出来たというところでしょうか。
「シューレディンガーの猫」のように箱を開けた途端、過去の箱の中の猫の状態が明らかになる、ということなのかもしれません。
人生の成功者になるために、俺はなんかかんかをやってきました。本を読んで来たのもそのためだし、高校&大学と漫画を描いたのもそのためだし、河合塾で浪人生として一年過ごしたのもそうです。パソコンでプログラムを独学したのもそうだし、作家になりたいのもそうです。
昔の自分を無駄にしないため、未来の自分が効率よく過ごせるために、今の自分を動かしてきました。
それは、一見支離滅裂な人生に見えるけど、俺の中では確実に繋がっているわけです。
「ああ、こういうことだったのか。」と思うことがよくあります。あなたもそうでしょうが、過去の行動が現在の結果に一致している時に起こるこの感情は、すなわち「正しい」ことをしてきたという充実感なのかもしれません。
ロバート・ライトは、心理学をフロイトの時点で停止させています。俺としては、利己的な遺伝子が及ぶところの「モラル」は、イコール、ユング心理学の「論理的なNo.2」だと思います。
そうそう、「社会生物学」を学んだ者は人を愛せるのか否か……ですが、俺はきっぱりYESと言えます。
何故ならば、俺がそうだからです。
うーむ、考えてみれば、このような感銘を受けたのはダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」以来というところか。半村良の「妖星伝」といい、俺にとって、「本」というものは大切なものです。
余談になるけれども、俺がフロイトを毛嫌いして、ユングを支持するのは、人生への見方、他人への見方ではないか、と思っています。
果たして、フロイト学派は、社会を悲観的に考え破滅思想に満ちています。自分を別として、他人を批判・分析するための行動に俺は嫌気がさすのです。
ユングはといえば、「モラル・アニマル」で対象とされるダーウィンのように、自らの掘り起こしを行い、自分を中心んして自分の歴史を振り返り、そして、他人への考察を深めていきます。
まず、最初に、自分か他人か、が運命の分かれ目ではないでしょうか。
自分の事を考え、自分の幸福を目指した時、自ずから自分の好きな人や、関わってきた人や、友人や、兄弟、両親、と自分以外の幸福を自らの幸福として捉えることができるのではないでしょうか。それこそが、「治療」を主としたユング心理学の根本だと思っているし、俺が支持する由縁です。
まずは、自分の事を考える、というのは、決して悪いことではないと思います。
そう、これだけ「楽観的」に考え「性善説」に満ちるのも、人として幸せになる方法だと伝えておきましょう。
その証明は、すなわち、俺が幸せだからです。
update: 1997/01/09
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