書評日記 第191冊
ものぐさ精神分析 岸田秀

 立花さんと呑み会。土曜日の午後6時から午後11時まで、阿佐ヶ谷の居酒屋で話し続けというのは、結構満足度は高い。「わ会」もそうだったけど、基本的に「騒ぐ」よりも「話す」のを重点に置いている俺の場合は、きちんと言いたい事を言ったか、聞きたい事を聞いたか、によって、その後の独りの時の「虚しさ」というものを回避できるか否かにかかっている。
 何を話すかは、場の雰囲気にもよるのだけど、上っ面の会話を重ねるよりも、多少の喰い違いはありつつも、自分の感情を素直に出して、何らかの反応を返してもらうことによって、安易な同意や同情ではなくて、相手や自分を「理解」するという域に早く到達するのではないか、と思う。
 まあ、この辺、如何に上手に自分の奥の部分を出せるかという手法に掛かっていくわけだが、その表現が巧みであるか否かは一般的な社会での問題で、このように「対話」として一対一での会話の中では、当然のことながら話し相手は、一人しかいないわけで、相手に理解されようという努力は、多分に実り易いものだ、というところなのかもしれない。これは、双方の共通認識を幅広くとって、相手に向かって接しようとする態度が、心の交流としての対話を為すのだと思う。

 多人数での呑み会は、多人数であるがゆえに、全体としての共通認識の域は減る。勿論、それをあまり必要としない人達もいるわけだが、俺や立花さんのように渇望している者にとっては、辛い作業を強いられる。この辺が、騒ぎの途中での疎外感、騒ぎの後での虚無感に襲われる理由である。
 もっとも、仲間内での甘美な想いに負けない強さ、または、甘美な部分に触れないという防御方法もあるかもしれないが、それでも尚且つ、人との交流は大切なものであるし、人は人の中でしか育てられないとするならば、人に接していく作業は重要だと思う。ただ、敢えて流されるにせよ、溺れるにせよ、一線を引くにせよ、自分の感情を大切にし揺れるものは揺れるものとして、何かを求めようとするのは決して無駄な作業ではないし、それこそが集団と自分とを対比させた時に忘れてはならないことだと思う。
 逆に言えば、人に何も期待しないというのも、卑怯な態度ではないか、と思うことがある。何故ならば、期待する自分がその対象の者に裏切られた時を思い、最初から自己防衛に走るのは、結局のところ、関わり合い自体を拒否することになり、それは自らの殻を破ることをせずにいる「停滞」の状態に甘んじているのではないか、と思うからだ。ただ、母親の云う通り「人はそれほど強くない」わけなのだが、俺に言わせれば「ならば、強くなればいい」というところなのかもしれない。ただ、注意すべきなのは、向こう見ずを張るよりも、種々の安全工作をしておくのは臆病かもしれないが、自分をどん底に落とすことがないようにする慎重さは備えて欲しい、というところ。

 まあ、何かを言いたい時に、こういう文体になったのは、「解からない人は解からない」ということは解かっていつつも、「解かる素養」のある人に期待をする、という態度を崩したくないためである。
 ただ、解かってしまう人には、「ちょっと過激かな?」の感情は持たれるであろうことを、ここに示しておく。

 実は、このように歯痒い言い方をするのは「利己的な遺伝子」を知り、その活用法に目覚め、「差異と反復」を読み、「伝達」というものについて再確認を行っているからだと思う。
 ことある毎に人には伝えるのだが、俺は「会話」というものが「意味」を確実に伝える手段だとは思っていない。更に云えば、自分の持っている「意味」を他人に伝える手段は無い、とまで公言している。
 じゃあ、何故、このような書評日記等を書き、何かを伝えようとするのか、と問われれば、俺は「本」よりそれを得てきたという実証があるから、そうしているにすぎない。また、全てではないにせよ、伝わるらしい気配にすがる手法を習得しているにすぎない、と答えられる。

 「ものぐさ精神分析」は、内田春菊を立ち直らせた一冊だそうだ。岸田秀は、フロイト派の心理学者だが、戦争による日本人への影響といい、神経症的な日本人の気質といい、共感する部分は多い。
 かなりいい点まで行っているのだが、何故か病理的分析になってしまって、悲観思想に走るのが残念なところなのだが、それを受けて内田春菊が沢山の作品を残していることを考えれば、本質を突いているし、内田春菊が本質を突かれたことは確かなことらしい。
 ただ、まあ、自己分析にせよ、自己実現をするにせよ、「ユング心理学」の方が、相当楽ちんであることは確かなこと。何故ならば、先がある楽観主義のほうが、生きている価値というものに対して、社会の向かう方向について、より自然な感情であるからである。この辺「モラル」にも通じる。

 そうそう、速読に関してだが、俺の場合、多読が幸いしているのか、大抵の本を読んでも解からない部分というのは少なく、繋がりのある本を読んでいるためか、本に書いてある半分程度は既知のことであるから、速読が可能であるのかもしれない。この辺、筒井康隆や大江健三郎も「速読のできない本」の存在を認めているところから、同じ手法で速読を行っていると思われる。
 勿論、単純な訓練による速読も可能であり、文庫本を5分で読み切り、普通の速度で読んだ時と同じように内容を把握できるのは、本当のことである。ただ、この場合、本を「眺めている」に等しいので、相当おもしろくない、のは確かなこと。面白い面白くないを別として、感情を廃して情報のみを得るというところであろうか。

 ちなみに「ものぐさ精神分析」は、スピードを上げて読んだ。内田春菊を立ち直らせたのは、最初の部分にある、とある例だと思うのは、単純すぎるだろうか。
 いや、なに。内田春菊「めんず」実業之日本社を読んで、笑っていられるのは、今の俺だからなのか……そんなんことを考えてみる。

update: 1997/01/12
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