書評日記 第198冊
彼岸先生 島田雅彦
新潮文庫

 こんな本を読めるようになったのは、童貞を捨てたからなのか、は良く解からない。ただ、菊人憧れるところの彼岸先生に自分を投影させて楽しみ、刹那的な快楽の感情に身を委ねるようになったのは、新しい楽しみを得た感触を得る。

 そう言えば、中高校の頃は「独身主義を通す」というのが俺の口癖だった。女の子に声を掛けるのを嫌がったというか、敢えてそういう甘い感情を必要としなかったというか、自分にとって特別な者を作りたくなかったのかもしれない。それは、特別視されることを願うが故の言動だったのかもしれない。
 大学時代も機会が無かったからそうだったのか、漫画という内省部分に集中するために、他のことは一切きりすてなければならないという信念であったのか、恋愛という俗世を好みながらも、自らを恋愛に従属させなかったのは、今にして思えば有効な時間の使い方をして来たのかもしれない。
 尤も、既には戻れない一般社会に身を置くために、また、かつての自分の理想と現実の虚しさの狭間から抜け出すために、あたかも狂気とも思える行動をとって来てしまったのは、まさしく、ぎしぎしと軋む己の変態であったと思われる。この辺を自分ながら肯定してしまうのは、岸田秀「ものぐさ精神分析」を読み、よくもまあ今の状態に至ったものだ、と自分の行動を省みて、それらは精神病理患者からの脱却の行動そのものであることを知ったからである。

 ただ、他者から見て、一見、社会生活が正常に思われるのは、この俺の一面しか見ていないからである。見られる自己を補強し、見る自己を常に育てていく作業が、俺にとっては必要であり、それこそが将来的に望む姿であると思われる。

 こうやって、日記に書き記したことには嘘が交じることは否めない。ただ、俺が発狂しないのは、その嘘が首尾一貫しているからではないか、つまり、嘘でさえ真実としてしまう言葉の巧みさ、理想への強い執着から自己を変革してまでそれに近づけようとする行動力、が自己を騙し続けられる理由ではないかと思う。

 誰かに読まれることを前提として内面を覆い隠すのは危うい。内面が露出しているにも関わらず、常に自己は反意であるのだ、という思い込みが、強引な分裂を引き起こすからである。 ならば、素直に出す。それが「嘘」であっても、自らより出たものを自らに属するものと常に認識するならば、それは書き出された事実の虚偽に関わらず、守るべき自己を素直に表現しているという自覚を生み、安心を得る、というのは過言であろうか。

 外面からの主張に惑わされるのが人間であり、それを認めつつも内面を主張するのが人間であり、そういう根本的な誤解と幻想を抱えつつも、人は人との対話でしか、何かを得ることはできない。

 というのが俺の感想である。

update: 1997/01/17
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