書評日記 第199冊
深い河 遠藤周作
講談社文庫

 人生、何が幸福で何が幸せなのかは解からない。ただ、「深い河」の最後の場面で美津子が尋ねたシスターが云う「そうすることしか信じられないから」という科白に涙の同意で答えるのは俺が心底そう信じているからだと思う。

 ひとり歩まんとする者に対して何も言う言葉は無い。ただ、ささやかな敬愛を示してくれる、その雰囲気だけでいいのかもしれない。心の拠り所というものを、自分の外に置くのは危ないことなのか、それはよくわからない。云えるのは、俺には心の拠り所が必要である、ということだけである。
 恐怖に耐えるのは、たやすいことではない。独りで黙々と耐え忍ぶのは辛い作業だし、その恐怖が決して無くならないものであればなおさらである。
 肌の温かみを知り記憶にとどめ、それを反芻することにより、日々の虚しさに耐える。一歩一歩前進していかねばならないもどかしさ、永遠ともいえる、いや、単なる夢想とも思える目的を為し得るために自分を推し進めていく作業の苦しさ。本来ならば、知るべきことではないものを知ってしまった時、目的とすべきでないものを目的としてしまった時、それを捨て忘れるのが、人間の営みを楽にこなす処世術なのかもしれないが、俺にはそれができなかった。

 大切な思い出を記憶に留めつつも、今を生き、特定の者を思って何かを為す作業は、俺には普通のことだった。思索する中から出てくるものこそが本物だと思い、検討した上での踏み出しによる結果ならば、すべては最善を尽したことになるし、後悔もしない。知らぬところで起こりつつある経過、そして結果を甘んじて受けるしかない。

 撞球のように単なる物理学的な法則により、接触と離脱を繰り返し、陥るところに陥るならば、それはサイコロを振らない神のおぼしめしなのかもしれない。
 俺の言動が及ぶ範囲はそれほど広くはない。それは、時間の円錐が証明するところである。情報は光の速度を超えない。神はそれを超えられるのだろうか。

 神学生の名が大津であることに、何かの意味を見出すのはたやすい。彼が過去にこの事実を知っていたか知らなかったかに関わらず、俺は時間を逆行させて考察を行い、事実を構築する。
 ただ、嫉妬心の無くなった俺にとって、すべての事象は許容範囲にあり、今の現実が本物で、ねじまがった感情に惑わされないことを願うだけである。俺も、彼も、彼女も。

 現実を知る術を失った今の俺には、考えることしか残されていない。愚かな憶測と明晰な推理が導かれるべき結論に到達し、証明終わり、の文字を浮かびあがらせる。
 ただ、不幸なのは考えた末の結論も流された末の結論も同じところに至る。ならば、考えずに行動を為し、そう信じたところのみを思いのままに行動すれば良いのではないか、とも云える。
 以前は、これに相当悩んだ。しかし、今は違う。悩み考えることこそが、今の己を創ったとするならば、俺は悩み続けるしかなく、その行為が辛いにせよ楽にせよ、一番正しい、すなわち、俺にとって楽な方法であるに違いない。ゆえに俺は考え続けなければならないのである。

 だいぶん、数学が混じっているが「アインシュタインの部屋」を読んでいる途中だからかもしれない。
 しかし、「利己的な遺伝子」を知り、「モラル」を知り、「快楽」を知り、様々な人を知り、それでも尚且つ、知るところがあるとすれば、歩む俺にとっては、物事を論理的に思考していくのが性に合っているし、「玉ねぎ」を含めて、事象と関係の二元論を信奉する俺にとって、観察と把握はかつての自分からのテーマであるから、このままで行くしかない。
 すなわち、それこそが、俺の最善手であり、進「べき」道であり、「信ずる」ところなのである。

 印度の薄汚い娼婦館で死臭漂う女を抱く神学生大津にとっては、それこそが、善と悪とを混沌とさせる不可分な神の意志に従う行為であることは、菩薩を抱く道元に似ていると解くのは、「ユング心理学と仏教」を読み、とある経験をした俺だから知ることが出来た事実なのかもしれない。

update: 1997/01/20
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