書評日記 第201冊
悪徳の栄華 マルキド・サド
河出文庫

 澁澤龍彦の「神聖受胎」を読み、「悪徳の栄華」翻訳に纏わる猥褻問題一連を考えた上で此れを読んだ。
 かつての俺のことを考えれば、「悪徳の…」を素直に読み終えることが出来たのは不可思議な事実となる。「善」というものを絶対と考え、対するものとして「悪」を意識し、心理的なカソリックに導かれるままの己の頃では、決して読むことの出来なかった本である。それは「悪」というものを知ることにより、「悪」なるものに染まってしまうことの恐れから、「悪」を積極的に肯定する思想に触れることを避けてきたからである。今にして思えば、徒労であったと云うことも出来るが、当時の己を弁護するならば、「純」を極めるために必要であったのだろうし、その純真さこそが今の己を形作っているとすれば、それは感謝に値する。
 ただし、悦楽を知り、其れに溺れることを覚えた俺にとって、かつ、沈むことなく容易に抜け出すことの出来る俺にとって、今更、善だの悪だのという対比を残しておくのは問題が残る。本来ならば混沌なのであるから、混沌は混沌のままに受け入れておくべきなのかもしれない。ただし、それは「悪」なる行為を肯定するわけではない。しかし、単純に否定するわけではない。現実と幻想の区別が出来ない者が単純なる結論に飛びつく。社会に「猥褻」が存在するのは、健全な社会を支えようとする者が悪いのではなく、その条文に無条件に帰依してしまう思考停止の輩が問題なのである。だから、現実の切り分けは非常に難しいものであることを常に意識しなければならない。

 マルキド・サドの原書がそうだったのか、澁澤龍彦の訳がそうなのか解からないのだが、「悪徳の栄華」の文体は乾いている。毒殺であれ栽尾であれ千鳥であれ尻であれ鞭であれ、其処には端的な描写のみがあるだけだ。ジュリエットと数々の人との行為が並べてある品評会のように見えるのは俺だけだろうか。さながら博物館の貞操帯を見て、なるほど、と冷ややかな関心を抱き、それであっても今にしても尚記憶に残る、そういう「事実」の一部に過ぎない。
 ジュリエットの行為を己が再現してみたいのは山々であるも、実際に行為に移さないのは、やはり、身の安全が保障されないからであろう。それが、臆病を示すにしても、欺瞞を示すにしても、書物としての乾いた知識と並々ならぬ想像力を駆使してしまえば、実行するか否かはさほど価値に違いがあるものではない。危険性が価値に比するものでなければ冒す理由は無い。
 猥褻について何故にこんなに拘(こだわ)るのかと云えば、興味があるからであり、歴史上の残虐行為も同様である。ある意味で、社会がそのようにひた隠しにするからこそ、暴く悦びがあるのだから、奇書により一般とは云えない知識を得られるのだから、愉悦に浸ることが出来るのかもしれない。ただ、云えるのは、「快楽を快楽として認めないからこそ、残虐な犯罪が蔓延(はびこ)るのである」。其れを使命とするのはおこがましいが、俺の一連の「リベラル」行為というところだろうか。

 「神聖受胎」の中で澁澤龍彦が警察の取り調べの最中、警察官が「シロシロ」を調書に記す時に「そういう曖昧な部分に光を当てる行為が文学というのではないですか?」という疑問を呈する。俺はこれに大いに肯く。
 「文学」というものが成す社会的貢献は、「あらゆるものに「名」を付けていき、会話の中での共通認識の幅を広げること」ではないだろうか。伝えるべきことを伝えるために、伝達手段が曖昧な言論(ロゴス)でしかないからこそ、ひとつひとつに「名」を付けてチェックをし、そうして初めて本当の意味での双方の納得に落ち着くのではないだろうか。
 「性」を「猥褻」と結び付け「犯罪」の穏床として、または「犯罪」そのものとして扱い、即排除してしまう思想は、対話を拒否し納得し得ない局地を作り出し、負のフィードバックを産み出す結果になっているといっても過言ではない。そういう点で、「猥褻なんて存在しないのだ」という意見は正しい。

 俺にとって、貪るような性の快楽に身を沈めるのは簡単なことでは無かった。ただ、溺れ込む現実から、再び平常状態に引き戻される己を省みれば、ぼんやりとする自分が残り、流れに身を任せることに悩みを失った自然体の自分が確認できるだけである。

update: 1997/01/22
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