書評日記 第200冊
書評日記を書き始めた理由がこれの影響であるには違いない。内省をテーマとして何らかの脱却により自分というものを確認するための作品であり、それが俺に与えた影響はここまで長く尾をひいていると云っても過言ではない。
少なくとも俺にとっては大きな「キッカケ」となった作品である。
何故に200冊目にこれを持ってくるのかと問われれば、やはり、その呪縛から逃れようという意志に現われに過ぎない。
故に、深まる内省の方向転換を記す意味で改めて論じておくのは必要な作業かもしれない。
人がどのような捉え方をするのかは、この際関係ない。
この作品から得られる強烈な印象は、自己を再認識すると同時に自己を解放する術を求め、色々な現実(やむにやまれぬ事象)に次々と面することにより、自分が考え得るよりも大きすぎる現実に身を委ねつつも、その場その場においては考えざるを得ない頭を持ち、様々なコンプレックスを抱えながら、自分にとって他人にとってよりよい選択を選ぶしかない無情さ、己の考えの及ぶところではない絶対なる真実にひれ伏すしかない自分を確認をして自己を哀れみ、それは幸福・不幸という言葉よりも心の解放にて確かな自由を得た感触を暖かく噛み締めるしかない自分を誇りに思い、とある地への受容を確認する作業がそれである、ということだ。それでしか、人は自分を確認できない。だが、唯一ならばこそ、否応無しに流れる現実に対して、目を見開いておくことは、「質」を見極めるための必然ともいえる眼力を備えておく作業であるので欠かすことはできない。偶然にしろ必然にしろ、「転機」はそれほど多くなく、各分岐点に据えられたポイントを引く勇気を持つか否かがこの地に至る方法だと今の俺は云える。
ただ、忠告するならば、凡人云うところの幸福は決して得られない。その代わり不幸も無い。失敗さえも無い。
よどみなく流れる時間の瞬間瞬間に出てくる分岐点をしっかりと見据えてポイントを引きまくる俺は、その作業にいささか飽きつつも、そうするしかない自分を其処に据える。
ただ、今の自分を離れ、一般的な幸福(それが一時的なものであっても、またはそれを知っていても)を求める輩の立場から己を見やると、決して幸福ではない己を発見し、絶望感に打ちひしがれることもあるが、論理的に踏みとどまるべき理由、踏みとどまらねばならぬ理由、すなわち、その理由こそが踏みとどまる理由であるということ発見した俺は、己を哀れと評するが、それは決して彼らの云うところの不幸を意味しているのではない。むしろ、幸福感の飢餓による不幸に苛まれていると云える。
それらは、唯一独りでしか達し得ない地に足を踏み入れてしまったことにより、得られる感触であって、この感じを他人に与えよう、共感しようというおこがましい行為はできないし、共有はできない。ただ、それを知っている者が行う言動に対して、ささやかな連帯感と安堵をその人に求めたとしても、無理からぬことだと思って欲しい。本当の意味ではそれすら出来ないのであるから、表面上の儀礼にしか頼ることが出来なくなっているのである。
偽善ではなく本当の意味で他人を思いやる仏の心は、荒魂の神の心と通づる。この思想は、「宇宙御子」で知り「クラダルマ」を通して「深い河」に至る。
そもそも、男女という関係が神と仏を連想するものだとしたら、いや、それより導き出されたものが善と悪、動と静、構築と崩壊、聖と淫、の対の思想を明確に転化したものであるとすれば、果たして双方をひとつの身に内在させることが困難であっても無理からぬことなのだ。
よっぽど、事象による使い分けを苦慮する方が建設的である。
人は現実というものに襲われその場の対処を迫られる。意識的にせよ、無意識的にせよ、対処は為される。その連続が人生であり、その終着が死である。
主人公碇シンジの現実は飛来する使徒であり、迫る彼らの破壊行動が自らの命乃至生活を脅かすからこそ対抗する。好む好まざるに関わらず、対処する現実に彼の意志は囚われ、そこに価値を求めようとする。
それらの流れが必然なのか偶然なのかに関係なく、怒涛のように流れ込む現実に対処するのが人生だとすれば、そこからこそ、何かを見出さなくては、一体人は何処に生きているのか解からなくなる。奪い取る場所は其処しかない。
そうやって、内省し自分本位に現実世界で他人より奪い取ってきたものの総体がこの俺である、と云っても過言ではないし、この書評日記はその過程を記した記録である。
外部に出せない自分が居る。だが、破廉恥にも露呈してみて初めて俺は此処に至った。
嘘偽りなく、感情を発することが危険であることを知り、それを踏まえて今に至る。混沌の中から言葉を紡ぎ出すのは沼地を歩く作業に等しい。ただ、止まればずぶずぶとはまり込む泥の中では、もはや進む以外手段が無い。
ただひとつ、御忠告申し上げるのは、偽りの言葉を使った時、既に偽りの心に飲まれつつあるのを知って欲しい。その偽りが本物を覆い隠し、決して触ることのできない不可知なものにしてしまうことを忘れないで欲しい。
偽ることを許さぬ現実の日々が「少年」をして「神話」と為さしめたのは、この作品の主題歌の望むところであり、それは現実に起こり得る事実と思ってかまわない。
update: 1997/01/20
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