書評日記 第211冊
鳳仙花 中上健次
新潮文庫

 物憂い日々に一条の光さえあれば俺は其れで十分である。緩やかな時間の流れの中のささやかな関係だけが俺には必要だ。微妙な所であるが理解せざるを得ない現実が憎い。

 解説によれば「鳳仙花」は日本の母を描いた作品と評されている。ただ、読み進めると解かるのだが、「母親は強し」という評価を下すには、主人公フサは女の弱さを主張し過ぎる。当然、中上健次がその様なステレオグラムな日本の母を描こうとしたかは解からない。少なくとも中上健次の内に潜む母親像が現実に対して脆い母をイメージしていたらしいことは解かる。勿論、ひねくれて批判的な形で弱い母を描いたのかもしれないが、「枯木灘」や、「笑犬樓よりの眺望」に描かれる文芸クラブ脱退を喚起する中上健次とおろおろする筒井康隆の図を想像すれば、実直この上ない彼の思考からは直接的な作品しか出ないことが容易に想像できる。
 要は俺と同様、糞真面目な奴なのだと思う。

 「孕む」という単語にびくびくしながら読み進める。
 交悦への妄想は消えたものの、子への幻想は変化しない。まあ、男の身では一生孕むという体験は為し得ないので来世に期待するしかない。
 「鳳仙花」では、フサが男とまぐわい子を孕む。時代は満州事変から戦後までであるから、避妊なり堕胎なりの概念は出て来ない。孕めば産むしかない現実、そして、産めば子を育てるしかない現実に流されるフサの姿が其処にある。
 15歳にして子を孕み、勝一郎と結婚をし、5人の子供を産んだ後、夫に先立たれ、その後自立するにも自立し得ぬ現実と、体の暖かみを欲する女としてのフサは、母と云うにはあまりにも女の部分が多すぎる。そう思うのは、俺が未だ父親・母親に幻想を持っているからなのだろうか。
 フサの母親の死を境にフサは母親に為るかと思いきや、最後の場面は、最初の濡れそぼる娘の姿に身を移す。其処にもやはり母の姿はない。

 つまりは、フサは母親に成れないのであろう。これは、中上健次の母親が、母親然としていなかったことを示すのだろうか。
 いや、俺の母親が母親然としていないのかもしれない。其れを確かめる術は無い。

 母というキーワードを抜き去り、女の一生としてのフサの人生を考えた時、男に振り回される彼女が其処にある。別に「おしん」のように堪え忍ぶ女の姿があるわけではないのだが、そう成るしかない女性の形が描かれていると言っても過言ではあるまい。
 独立した人間として生きるのではなく、子を産み育てるということにのみ人生を費やし、その原因となる所の男達に翻弄しつつも頼らざるを得ないフサの姿は、哀れというよりも、何も考えずに生きられる一種の幸せすら俺には感じられる。
 馬鹿にするのでもなく、同情するのでもなく、ただ時代に翻弄されるしかなかった一個の女性が其処にあり、それこそが日本の母親の姿だとするならば、女の幸せというものは単純であるが故に簡単に手に入るものだ、と納得せざるを得ない。
 無論、俺が来世に期待するのは其れではないのだが……。

 これも同様に「田舎」をキーワードにした一種の閉鎖空間の小説である。「天然コケッコー」のように村人の科白が俺にはよく響く。
 一次産業に従事したいと思う幻想は此処から来るのかもしれない。まあ、慢性の栄養失調では困るのだが。

update: 1997/01/27
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