書評日記 第212冊
仮面の告白 三島由紀夫
新潮文庫

 現実に誰に語る訳でもなく、自分の中の対話として問題を解決していく癖を付けてしまうと、世の中の時間とは関係ない自らの解決方法を生み出さねばならない。
 これが即ち孤独という奴なわけなのだが、三島由紀夫が呟いたという心理的な友人の乏しさは、彼自身では解決し得ぬ問題を彼のみで解決しなければならなかったという閉鎖空間ゆえの苦悩ではなかっただろうか。
 比してコミュニケーション不全症の輩におけるインターネット上の精神的な関係は、緩やかではあるものの確実に必要とするものにとっては、有難い存在に思える。
 其れを更に渇望するのは、渇望する仲間が居ればこそであり、己唯一であるとすれば、結局のところ現実世界と変わらない。むしろ、交感の無さから生み出される絶望感の方が大きい。
 「同性愛」というキーワードを紐解き、少年の姿に純粋な意味で恋する主人公三島の姿を思い描いたとしても、嫌悪感は低い。何故かと云えば、男という性に生まれしも、さほど積極的なアプローチを喚起しなかった己の人生を省みて、そうあっても仕方がないという諦めと同情があるのかもしれない。
 尤も、天才としての彼を眺むれば、凡人としての己との違いに溝を感じるはずなのであるが、「仮面の…」に描かれる自伝との共通点を見出し、更なる自信を高めようとするのは馬鹿故なのかもしれない。一体、己はどっちなのだ、という苛立たしさに襲われるのは過ぎた話である。今は、どちらでも良い自分が残っている。先の事は解からないのである。
 言わば、早熟である彼が幸せなのか、晩熟(あるならば)である己が不幸なのかは、誰も知り得ない事実である。どちらにしろ、身の不幸を嘆くのは、感受性の高い者の特権なのかもしれない。

 「仮面の…」が書かれたのは20代だそうだ。其れを三島由紀夫の天才故なのか否かは俺の知るところではない。ただ、在るのは、三島由紀夫が書いたという事実である。野坂昭如のように同時代を生きた者ならば、また、三島由紀夫という存在を日本男児のシンボルとして捉える者ならば、その文章の完成度の高さに拝聴する態を禁じ得ないかもしれないが、既に彼が死んだ今となっては、その評価は単純に作品としての評価と感想に止まらざるを得ない。つまりは、彼が40代にして「仮面の…」を書き得たか、という疑問に俺は達するのである。
 此れに拘るのは、「若い時に私小説を書くべきか否か」を常に考えているのだが、書くべき時になれば書かざるを得ない態度として保留しておくのが一番良いかもしれない。少なくとも、未だ己の母親が生きている現実を考え、一緒に生活している事実を考えると、妙な事は書けないし心情が許さない。無論、数々の俺の周りに起こる事象においてをやである。一切を終端とした時に整理を込めて振り返るならまだしも、現在の精神状態を危うくする危険を敢えて冒したくはない。まあ、現状が続くことを望んでいるわけでは無いのだが……。

 他に見るべきものが「仮面…」にあるとすれば、血に歓喜を込める三島由紀夫の姿の発見であろうか。切腹とは別に、鉄砲の弾に穿たれた黒い穴からたらりと流れる一筋の血、そして、たった其の小さな穴が人間を死に追いやってしまうあっけなさ、そういう想いは、袈裟懸けに切られ吹き飛ばされる上半身を描く平田弘史の武士漫画に通づるような気がする。また、黒沢明描く「椿三十郎」のラストシーンで吹き出される真っ黒な血(白黒なので)を思い出すのは、武士道から続く日本男児の使と隣り合わせの現実を俺が憧れるからである。

 文章化した時に混じる嘘(自己賛美も含めて)を現実のものとしようとすることで苦悩が育てられる。其れは見られる自己を過剰に意識するが故の心の葛藤に過ぎない。
 私小説・半自伝の危うさは其処にあるのではないだろうか。ドロップアウトをしない人生を送りたいならば、若い時の無反省は善しとしたいところだ。無論、其れに気付いてしまった己には無理なことなのだが。

update: 1997/01/28
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