書評日記 第217冊
哲学書の読み方はまず素早く一通り読み通すことである。研究せねばならぬのならば、一句一句噛み締めるように読めば良いのだが、若年たる己の頭で全てを理解しようと思ってはいけない。また、ハイデガーのように一生を掛けて考えている者が為した所業を数日のうちに理解しようと思ってはいけない。
つまりは、ハイデガーたる人物が己に対してどのような影響を与えるのか否かを判断してから、再読に転じるという読み方を行うのがベストであろう。無論、ハイデガー自身に失礼であることは解かっているのだが……。
本来ならばカント著「純粋理性批判」を読むのが先らしい。ただ、俺は哲学を体系として学ぼうとしているわけではないし、研究者には悪いのだがそれを唯一の人生の中心としている訳ではない。知識あるアマチュアとして、そして将来の文筆家としての土台の一つとして、「存在と時間」を読みこなし其れを理解しようとする訳である。
少なくとも数多くあるビジネス書を読み、満足に至るよりは幾分マシかもしれない。
「認識」というものを追求し「存在」というものに対して思考の「時間」を加える。其処に理解が生まれるわけだが、詳細は本書に譲る。当然、ハイデガーの方が的確に理解しているのである。当たり前だ。
以下はちょっと私的な考察。
「おしゃべり」といキーワードをニーチェも使うのだが(ニーチェが使ったからこそハイデガーが使ったのであろう)所謂対話(ロゴス)による相互の納得を目指すことこそが「おしゃべり」の目指すところだと思う。無論、本のように一方的な「おしゃべり」に於いても架空の対話人、つまりは読者を想定することにより、書き残すという作業は理論を組み立てる上で大切な作業である。当然、其れを知っているからこそこうやって読書の記録を書き残すのであるし、自分の中で考えた事を記録しておく。それでいて尚、発表したいという欲求、自分の考えを公開することによる持論の公共性を示そうとする作業は「存在と時間」という論文そのものにも云える。其れこそが「考える人」としての生きる姿なのだと思う。
「認識」をすること、「存在」を確認することは、時間の流れが不可欠な要素であることを「存在と…」は語る。これは量子力学で云うところの時間と位置の相互作用に等しいのではないだろうか。観察ということに対して、認識を時間軸内のただ一点に集中させてしまうのは不可能なことである。全ては相互作用の上に成り立っていて、位置を確認するためには別なる物の位置を確認する必要がある。それ等を同時に認識することを諦めるところに量子力学の根底部分がある。実は、超弦理論に於ける究極に微少な存在、つまり、物は点ではないという事実に根拠を得ることができる。余談ではあるが、グラビオン(重力子)を含むことができるのは超弦理論しかない。
それらを考えあわせた上で過去の積み重ねとしての認識があり時間の概念を考慮するのが妥当ではないかと思う。当然、「存在」に於いても同じ事が云える。
哲学と量子力学の共通点を見つけるのは、誰でもやる事である。とみに量子力学者は、東洋宗教に信用を得る。勿論、そのような神秘のみに解答を求めるのを俺は善しとしない。何故ならば、東洋宗教に於いて言葉を必要としない部分が根底に在るという事実に寄り添ってしまうと、安易な解決方法に陥らざるを得ないからである。此れは「言葉」を使って考えて来た俺だからこそ云えるのであって、本当の意味で禅にて悟りを開いた者に云うべき言葉はない。例え云ったとしても、言葉では理解し得ないわけだから、感触を確かめる程度(それが最高の感度にせよ)にしかならない。故に其方への解答を俺は求めない。
其れは、哲学であっても同じで、言葉によって考えることにより思考をより進める事に言及されることが示されている。多大な書物の海に溺れて多数の人間の言葉を噛み締めることこそが俺の楽しみであるし、其れこそが人間の本来の姿だと思っている。無論、それが「超人」の所業だとしてもである。
解からぬ事を解からぬままに理解するのを善しとしたい。よく解からないけども、なんとなく理解できるという態度を大切にするのが時間を有効に使う手段である。むしろ、解かったという未来に於ける理解の経過を無視した言葉を吐くのは余りやならい方が良い。「ユーリカ」効果は、常にあるものの其れにより人を見下す態度に陥るのは個人の勝手であるが、進める者には最終地点は要らないのであるから歩き続けることこそが本望なのである。全てを尊敬の内に包括したいと思うのは俺だけではあるまい。
update: 1997/01/30
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