書評日記 第218冊
童女入水 野坂昭如
新潮文庫

 富岡多恵子の解説に強く肯く。「人間がカンベンシテクレと云うところに面白さが生まれてくる」。同感同感。人間性だの尊厳だの優しさだのというお為ごかしを排除したところに「童女入水」の面白さがある。この辺「悪徳の栄華」の乾いた文体を楽しむのと同じ面白さがある。
 「モウ、ヤメテクレ」という良心を踏みにじるような人間の心情を排他したところを抜け切る場所に可笑し味があるといっても過言ではあるまい。「いい加減にして欲しい」というまで叩きのめされる快感が其処にある。サドにせよマゾにせよ、乾燥し切った人間の心情に訴える所の面白さを感じるべきであろう。

 此れ等の感情に対して、罪悪感を持つほど俺は単純ではない。いや、純粋だからこそ得られる素直な読み取りが「童女…」から得られる。人間の非感情性から得られる暴力の数々に肯くことが出来るのがこれらの悪書の楽しみ方だと思う。先の「家族八景」も同じ事が云えるのだろう。
 悪事というものは踏み躙る快感に酔うところに楽しさがある。其れを実行に移すか否かは、想像力の逞しさの違い、つまりは幻想を幻想とする精神力の強さ、不思議な人間性の慾する所であって、其れが直接犯罪という現実に結び付くと考えるのは凡人の想像力の無さ故としたい。つまりは、善悪をきちんと理解した者のみが得られる読書の幅、思慮の深さ、自分の頭で考える事の出来る判断力としたい。……当然、希望に過ぎないのではあるものの。

 良書のみを読み、心安らかと銘打たれた書や、無難と云える科学書の類い(其れに思想が含まれるとは知らずに)のみに触れ続けるのは、俺にとって余り面白い事ではない。たまには、思いっきり非人間性の所業を眺めて、ウハウハと笑い飛ばす行為を楽しみたい。

 「童女…」に潜むとされる人間の奥深い所の内面性なぞという一般的な解釈で上記のような笑いを得ることは出来ない。そぞろ悪事を想像し、仲間としてヒヒヒと卑猥な笑いを浮かべるためには心理学を専攻していなくても良く解かるのである。むしろ、フロイト心理学なぞを知ってしまって其れを理解の助けにして冷ややかに「童女…」を眺めてしまっては、楽しみは半減してしまうのである。
 ただし、内面の残虐・破壊性のみを出力されたところで誰の同意を得るものではない事は確かかもしれない。其れは「一体何が面白いのか解からない」と云われた初期の筒井康隆の作品が其れを証明している。
 しかし、一旦受け入れられてしまえば知識としての面白さも相俟って、「童女…」のような作品も広がらぬでもない。読者に媚びるというよりも共に想像力を駆使する作者に更なる賛美を掛ける意味で、彼らの作品が広まるのかもしれない。尤も、そういう理解のされ方が為されているとは到底思えないのだが、一部分の熱心なる読者は正しい道を進んでいるのだろう。

 社会批判という立場で、教育なり公害なり家族なりを批判していると考えることも出来る。むしろ、政治家の坂昭如を先に知れば、そのような立場に居たであろうと考えるのは難しくはない。
 ただ、解説にて富岡多恵子の云う小説家野坂昭如を中心に考えれば「童女…」の解説は彼女云う通り、書かれて知るものではなく、読んで知るものである。読まずして内容を知ろうとする浅墓さな所業は、それだけでしかないことを知るべきである。
 尤も、この文章のように「書評」を冠し続けているのは密かなる反抗だと思っても構わない。所詮、己の感想の記録に過ぎず、他人とは異なる事への執着と誇示に過ぎない馬鹿な行為なのである。

update: 1997/01/30
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