書評日記 第234冊
たとえば純文学はこんなふうにして書く 女性文学会編

 純文学という分野がどのような分野を示すのか良く解からない。寧ろ、「純文学は死んだ」という言葉と共に其の分野は葬り去られてしまったのではないか、と思っていた。しかし、表紙に冠される「純文学」という単語と、村上春樹を筆頭とする22の作家の名を見た時、「確かに純文学の作家かもしれない」という思いに囚われた。
 娯楽という安易な面白さに背を向けたもののみを純文学とするならば、昨今の作家のうち大江健三郎以外は純文学とは云えないのかもしれない。しかし、娯楽というものが一体なんなのかという事を改めて考えてみれば、知的な娯楽という存在として挑むような形での小説という存在が露わになる。

 タイトルからは、純文学の作家になる為のような気分を匂うわせるし、内容も小説家という職業を目指す者への示唆という形になっているが、小説を書くという行為自体が自分の言葉への挑戦・探求であるとすれば、読む側としての純文学、そして其れを書く作家の見方という内容に見える。
 実際、小説を書くにしても手本があるわけではなく、手段があるとすれば、自分が面白いと思った部分を模倣して書くぐらいであろう。また、自己という集団からの特異性を如何に描き切れるかに掛かっている。それが、評に当たるか否かは別の事でしかないし、単なる足掛かりに過ぎない。無論、何らかの賞を取る事は必須ではあるだろうし、読者層を得る事も必要ではあるが、それ以前に「自分だけが書けるものを持っている」という探索が続くか否かが、作家としての生命を担っていると思う。
 果たして、俺は持っているのか?

 22人の作家を横並びにすると、決して重ならない。重なってしまえば何々風の作家という事になるし、小説という分野は現実そのものだから広大過ぎるほど広大な訳だし、重ならないの当然の事だ。
 文体にしたって、さほど意味を持たない。好む好まぬは読者の勝手であるし、どのような文体であろうとも、作家に寄り添って読む者に対しては、意味を成さない。
 どちらかといえば、最初のひとつをどうやって選評者の目に留まらせるか?が工夫される部分だろうと思う。しかし、運と時流ではないか、と思う時もある。

 ……無理だな、作家になろうという者が、作家になる方法なんて解かるわけがない。

 俺がやっている事は、ひたすら本を読むことだ。まずは、語彙を増やしたい。長い小説を書いても同じフレーズが出てこないぐらいの語彙が欲しい。それらの語彙を様々に組み合わせて一番その部分にマッチした単語や文章を作り出す。その作業の積み重ねが小説という形になるだけだろうと思っている。
 幅広い知識量と学問への偏見のない態度も大切だと思う。其処には流れの良さ、つまりは人としての正しさが含まれる。論理的に一貫したものが小説の筋に無ければ、読み手として翻弄されてしまうし、書き手として登場人物が生きていないことになる。

 山田詠美が膨大な読書量を誇る。
 小説を読み、思考をして、その結果を書き残すという作業は無駄ではないと思うし、必須だと思っているからこそこうやって書いている。
 一体、何処まで知り尽くせば良いのか解からないが、大量な文献を読みこなすという事実は、俺にとって唯一であり大きな自信になっていることは確かな事だ。

update: 1997/02/06
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