書評日記 第235冊
愛の渇き 三島由紀夫
新潮文庫

 最近、三島由紀夫を集中的に読んでいるのは、所謂文学嗜好というものを高めておきたいと思っているから。夏目漱石でも森鴎外でも川端康成でも……誰でもいいような気がするのだが、其れは俺が捻ているからなのか、それとも結局の所ミーハー嗜好だからなのか。後者のような気がする。
 ただ、読んでも飽きない部分が多く、三島由紀夫という人物の人生観に共感を覚えるのかもしれない。ヒーロー然としたその姿に憧れるのは、俺が筒井康隆を信奉すると同じなのかもしれない。
 「死刑囚の記録」を読んで改めて認識したのだが、作家というものは誰でも錯乱状態にあるのではないだろうか。普通の社会人から見れば、どうやってもドロップアウトをしているように見える。確かに作家としての職業は大学教授のような尊敬を称して「先生」と呼ばれる職業ではあるものの、過去の作家というものを省みれば人間として決して尊敬に値するような人物では無い。それは隣人として何処かおかしいのであって、芸術作品を残しそれを公開して、一般の者が彼の作品を見れば官能美を得ることもあろう。ただし、その芸術性は社会が社会として必要である狂人を保護するための幻想であるかもしれないのだが……。どちらにせよ、突出した才能というものは一般社会の平均値ではありえない。突出しているからこそ稀であって稀だからこそ、何かの価値観を幻想し得る根底を持った深みを感じさせる時もある。其れを病理としてではなく個人の中で保留にしておく精神的な強さと、作品を残さなければ破裂してしまう頭脳が、数々の芸術家を産み出し、後代に残しているのではないだろうか。

 作品の中に作者が紛れ込む。主人公悦子は、夫の死後、田舎に退き舅と暮らし、使用人三郎に恋心を抱く。しかし、生前の夫の女遊びへの懸想から、三郎に対して弄びを嵩じる。三郎は、女中の美代と関係を持つわけだが、悦子は其れすら利用して弄びを敢行する。悦子は三郎に愛されているという余裕を持って対処するが、三郎と美代とのじゃれあいを見るとだんだん辛くなる。そして、悦子は三郎に告白するに至るわけだ。
 結局の所、悦子の独り芝居でしかないこの物語は、三島由紀夫の孤独な人生を映したものではないだろうか。独り考えて自分の心地よいように行動を起こしているつもりが、実は人との関係というものは自分だけではない、という部分に気付かずに、ただただ心の深み陥っていしまう状態。独りでしか為し得ない人生を計らずも歩んでしまう悦子の姿は、当時の三島由紀夫の哀しみを反映させてはいなかったか。女遊びをする夫を毒殺してしまい、彼への復讐を十分に為し得ないまま、悦子は生き残ってしまう。実際、死んだ夫は女遊びをしていたかどうか、さだかではない。その迷いを振り切るかのように、冷たい仕打ちを三郎に与えようとする。しかし、三郎は三郎なりに幸せを掴んでしまうから、残されるのは悦子の適えられぬ恋心のみである。それは、心を許す事の出来る友人を持たなかった、そして友人というものを持たない自分を考えた時、自分ではどうにもならないジレンマの中で、起こしてしまう行動は周りの者を下卑た者として下に見てしまうことであり、其れがより一層頑なな態度を取らせ、ますます人から離れてしまう自分を憂慮してしまう、そういう部分の露出が悦子という作中人物を産み出したのではないだろうか。
 つまりは、俺と同じなのであるが……、この点はしばし保留、どうにもならないものを悩むのは無駄である。

 孤独の中で拾われることを願った三島由紀夫という人物は、ダンヌンツィオを目指してヒーローになろうとした。しかし、日常生活は送らないといけないわけで、彼は数々の変遷の中途の時期をどのように過ごしたのだろうか。一日一日という時間が流れ去る中で、どのような想いをして過ごしたのだろうか。
 俺は本を読んで過ごすしかない日々を送っているが、会社では仕事に没頭でぬ身を持て余して、ただ、書評日記を書き綴る日々は、一体なんなのであろうか。無論、思考の渦に押し流されないための蛇口であると解かってはいても……。

update: 1997/02/06
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