書評日記 第236冊
真昼のプリニウス 池澤夏樹
中公文庫

 女性っぽい文体で書く人だが昭和20年生まれのおじさんである。敗戦の年だからうちの親と歳は余り変わらない。そんな彼という作家と小説が気になるのは、好きな人が好きな作家だからである。彼女が何故に好むのか以前は解からなかったが、今はその「物語」という部分が解かるようになった。村上春樹の「ねじまき鳥…」を読んでから、小説の物語性というものを考えるようになった。現代神話=純文学というものを意識して読むと、アインシュタインがカフカの小説を読み「人はまだこれほど複雑なものを理解するようには出来ていない」という感嘆を述べた気持ちが良く解かる。それぞれの作家が、彼らなりの手法で自己を模索し、小説という作品をひとつひとつ創っているのである。それは未だ公共性を持たない。

 最近は解説をさらりと流して読むようにしている。以前は自分だけの印象で十分と思ったのだが、解説者としての読み方も聞いておくに越したことはないし、著者の略歴を知る事が出来る。無論、同意できない部分も多いが、色々と読み落としていた部分が解説されると思考に新たな部分が加わって楽しい。
 ただし、日野啓三の解説はちょっと誉め過ぎの感じがする。其処までの読み出しが可能であるかどうかは怪しい。吟遊詩人的な小説とするには、地学学者頼子の言動には彼女自身の独特さが足りないような気がする。悪く言えば、学者然としたステレオタイプの知的な女性というものが描かれているだけという感じがする。それは、著者池澤夏樹が男性であるから無理だったのか、それとも読者の俺が男性だから読み飛ばしてしまったのか、判然としない。
 「マシアス・ギリの失脚」を読むと良いかもしれない。

 地学学者頼子を女性として読み込むのか、それとも学者としての芳村頼子として読み込むのか。賢い女性であれば、自分の状況と彼女の状況を重ね合わせて、女としてのわだかまりの部分に同意を見出すのかもしれない。其れは独立という部分を担うのか。人として人生を生き抜くために、流される関係の中で彼女にとって男性という要素がどういう要因となるのか?に興味が注がれる。
 女性の場合、知的という部分がマイナスになる事が多い。俺より下のリベラルな世代が、どのような感情を持つのか俺が解かる訳がないのだが、男女平等という意識を男女平等という単語として捉えず、ただただ自然体なものとして受け入れられる思考の柔らかさと自由さを持った者ならば、知的な職業に就く芳村頼子という人物は、無駄な束縛を持った人と思われるかもしれない。もっと「らしさ」という部分を捨てて自由に生きるべきであるのに、地学学者という部分を引っさげて生きてしまう彼女の姿には、為さざるを得ない姿というよりも彼女自身の個性に希薄な印象を持ってしまう。
 結局の所、俺の考え過ぎの人生を芳村頼子に重ねつつあるのかもしれない。彼女自身には地学という学問しかない。タイトルの「プリニウス」が示す通り、溶岩の中に死ぬならば本望という所だろう。

 人として哲学を優先させてしまう時、人は彼自身の運命に弄ばれてしまう。自分よりも外部の状況=運命というものを意識し始めた時、悲観的な見解ではあってもそれは考える者にとっては楽観でしかない。つまりは、誰も助けることの出来ない自分という存在を抱えたまま、何処に行けば良いのかわからない。易者の言葉を聞きつつも、彼の言葉を無視そして認めるような芳村頼子の最後の行動は、彼女に人生に於いてひとつの通過点に過ぎない。それが終わりなのか始まりなのかは解からない。ただ、其れを通過しなければ何処かへは達し得ない運命というものを抱えて、彼女は火山へと赴くしかない。そのような絶対的な哲学的意志を「真昼の…」は伝えるのではないだろうか。

 希薄な印象を与える芳村頼子という主人公は、ひとつの物語の中で動かざるを得なかった駒に過ぎない。
 現実の人生でもそういうものなのか。自らの人生というものを哲学的な悲観論で捉えてしまうのは、果たして良い事なのか。達観なぞ有り得ないからこそ、この点も保留にしておくしかない。知るのは50年後ぐらいか。

update: 1997/02/08
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