書評日記 第240冊
ダーウィン以来 スティーヴン・ジェイ・グルード
早川文庫
ダーウィンの進化論は100年目にして理解されつつあるのだろうか。進化という本質の部分を問うた時、明らかに「利己的な遺伝子」や「モラル・アニマル」の論理が必要になる。自然淘汰の中での進化は生物的な進化に止まらず、各学問の中で集団を考えたとき「進化」というキーワードが組み込まれる。此れは普遍性を主とする科学という世界の中で、十分に認められた論理だから起こる現象である。
無論、利己的・利他的の対比のように、一見、進化のように見えるものであっても、進化としてそぐわない場面が出てくる。例えば戦争なのであるが、人は何故戦争をするのか、は未だ解かっていない。個としての利得は巨大な戦争という個を無視した部分で起こり得るのであろうか。軍需産業が発達するために、科学が飛躍的に発達するために、世界人口の補正のために、戦争は起こるのかもしれない。だとしたら、回避できな戦争というものに対して、あるべき姿としての戦争を人は受け入れる事ができるだろうか。感情という心理的な進化の末に得た性善説を従えて、且つ、戦争という人類の一大事を認めるに至るのだろうか。
逆に平和というものを考えたとき、果たしてどのような状態が平和なのか、とこの書は問う。決して戦争の無い状態が平和なのではない。アフリカの慢性的な飢餓を考えれば決して平和と呼べるものではない。利己を認識した上で、彼らを救う事が出来るのか、と問われれば、俺は出来ないと云うだろう。多分、其処にあるのは、危うい安定でしか有り得ない。
「モラル・アニマル」を読み、男性という性を得た俺ではどうやっても幸せになれないことを知った。俺個人では幸せにはなれない。所詮、男性はヒエラルキーの中に生きざるを得ないし、産む事が出来ない以上生殖への選択権はない。後は犯罪を犯すだけに過ぎない。
だから、独立してしまって、介添えを必要としない人生を歩んだ方が良い。どうせ幸せが望めないのならば、己の力で進む方が気が楽である。自由になるのは己の身のみである。正確に遺伝子の意志に従えば、今の俺は、一発逆転を望むだけである。その価値を問うのは一般人ではないと思う。実験体となった自分を弄び、感情さえも制御しつつ、思考のみ頼るのは、危ないかもしれない。しかし、其れしか方法が無いとすれば、運命論者ではないが、運命というものを考えずにはいられない。社会の流れというものを知ってしまえば、抗う事無く社会の流れに従う己がある。労力を最小にして、ポイントポイントに爆弾をぶち込む。そのタイミングだけを間違えなければ良い。
結果を確かめる必要はない。ぐるりと巡って己に返ってくるのは随分先の事だろうし、やらなければならない事はたくさんある。今の俺は未だに進化をし続けている。
強烈な半年の進化が己の感情をずたずたにしたと云っても過言ではない。心理的な進化を遂げるには、味覚を失う必要があったのだろう。頭の中でぶちりと切れた。それが、諸々の己の劣等感だったとすれば、振り切るのは血の痛みであったのだろう。其れを経て俺は此処に至る。
知る知らぬは別だ。己に常に従順になる自分がいる。其れを手に入れただけで十分ではないだろうか。
感情を自由に制御できる己。あちらの世界への出入りが可能になりしっかりとした命綱を得た己。細やかな感情を持ちつつも厳然たる論理の塊である己。
完成しつつある物体に魂を入れ、実際に動くのは何時なのだろうか。頭のトルクが最大限に為った時、俺は狂気の世界に行って帰って来れないのか。
心理的な進化を経て、今に至る俺という物体を抱えて、何をしようとしているのか解からないが、少なくとも日々を生きるという点で、非常に充実している事は確かなことだ。
論理的な理解の上に立つ己という存在を進化の末と思えば、淘汰されぬ我が身を幸せに思うしかない。
update: 1997/02/10
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