書評日記 第241冊
働きざかりの心理学 河合隼雄
新潮文庫

 働いていない者が「働きざかり…」とは御笑いではあるかもしれないが、一応会社に属する者として、その社会に組み込まれる者として読んでおいても良いかと思って、買ってみた。
 焦点は夫婦と親子と会社の関係に絞られている。働き盛りの30歳から40歳ともなれば、結婚していれば夫婦関係・親子関係・会社の関係の中で、ひとつひとつの関係を処理する必要がある。多層化されている社会の中で自己を保つために、何をすべきなのか、いや、何に気を付けなければいけないのか、が河合隼雄にて語られる。

 夫婦関係というものが子供に与える影響は大きい。離婚や家庭不和という表立った現実に面しなくて(尤も、そのような現実では遅すぎる)夫婦の間の理解の無さが子供に多大な影響を与えることがある。単身赴任という現実を甘く見てはいけない。夫婦関係が極端に広がったり狭まったりすることで、親子関係が相対的な影響を受ける。子供に対して普段父親が居ないという事実を意識付ける事は、妻の役目であるのだろう。ただ、俺の場合は、3歳の頃から独立してしまったからなのか、妙に利発だからだったのか、よい子を意識し過ぎたのか、原因は兎も角、28歳にて麻疹にかかるようでは困るような気がする。
 どちらにしろ、今更どうこう言える問題ではないので、それらのコンプレックスを利点として利用するしかない。その現実を克服してこそ成長するのであろう……多分。

 結局、気になるのはアニミズムなのだが、先々の恋が麻疹だったすれば、それで善いかもしれない、という気になって来た。去年の夏からごたごたを繰り返し、未だにその痛手を引きずっている自分にいささか疲れが出てきた。二兎を追うものは一兎をも得ずとすれば、俺は今の状態を選ぶ。己の環境の大きな変化は、先に延ばしても構わないし、無くても良い。所詮、野垂れ死にの人生しか俺には残されていない。

 気が付かねば一生気が付かないのかもしれない。河合隼雄によれば思春期に対応する思秋期が40代半ばにあるそうだから、其の時に苦労すうのか……。どちらにせよ、考える事を覚えてしまった自分には考えて解決する道しか残されていない。利発と呼ばれる子供という時期を過ごしてしまった不幸が此処にある。無論、苦しみが無ければ己を形成し得ないのならば、そうしなければならないのだが、此れまでに様々な知識を得てしまった自分という存在に対して、逃げ出したいと思うのも無理はないだろう。

 自己嫌悪というものは、露呈として相手を憎むという動作に出てくる。他人の不甲斐なさを呪い、愚痴を垂れる。酒の席での戯事ですましてしまうのが普通であるが、考える能力を持つ人にとって、それは内省する機会を設ける。相手を罵倒した途端、その言葉を思い出して自分に当て嵌める。果たして、自分が其れにそぐう人物なのだろうかと反省する。それが自己嫌悪という心理を作る。
 逃れられない自己という存在に気付き、どうしようもない自分を持て余した時、全てを認めようとする部分に落ち着く。嫌悪という情動は単なる蟠りでしかないから、その辺の感受性を低く保ってしまえば気にならなくなる。且つ、複雑な要因によって陥っていしまう現実の為すものに対して、素直に受け入れるという行動を示すようになる。此れが、自己嫌悪を昇華する方法である。
 当然、無反省という自己を省みない態度を示す人もいる。その人は自己嫌悪に陥らない。省みない自己というものは発展しない。
 ただ、忘れてはならないのは、大多数の人はそういう人であるのだ。ちょこちょこ機会をみて自己反省をするのだが、すぐに忘れる。忘れるという方法も自己嫌悪の渦に陥らない方法なのだが、昇華されないので自分の糧にはならない。消えてしまうだけである。そして、何の解決も得られない。しかし、大抵はそれでうまくいくのである。
 其処に矛盾を感じるような時が多かったが、今は諦めてしまった。他人は俺ほど感受性が高くないらしい。俺ほど考えないらしい。何故、俺がこのようになったのかは不思議であるが、考える事によって至った事は確かである。ただし、辛い人生であるのが恨めしい。

 会社の中で自己を露出するのは難しい。上下社会であるし、一般に若い者の意見は通り難い。世代差も存在する。学校とは違って、様々な学習を経てきた結果が其処にある。
 周りの人間に対して、無理なく自分というものを示すためにも、自分という存在を意識しておく必要がある。自分の欲求というものを知っておく必要がある。
 心理学を自分のものとして役立てるのに重要な点は、自己をというものを認識するところにある。どんな社会に組み込まれても自己を見失わなければ良い。思考する者だけが辛いのである。

update: 1997/02/11
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