書評日記 第256冊
セバスチャン 松浦理恵子
河出文庫

 最初に読んだのが「親指Pの修行時代」で「ナチュラル・ウーマン」、「セバスチャン」と続く。「葬式の日」が処女作だそうだから、そのうち読むことにしよう。

 サディスティックな背理と、それに添う主人公麻衣子の話である。本質的にこれもエロ本。性的描写は一切ないのだが、どれよりもエロチックな雰囲気を醸し出すことのできる作家だと俺は思う。
 どの部分がエロチックなのか記述して置こう。

 サディスティックという言葉が背理には、ぴったりと当て嵌まる。しかし、それを受け入れる器である麻衣子がいるからこそ、背理はサドになれるのである。律子の天才的な結論への飛躍を為す存在もさることながら、倒錯した登場人物の中で、麻衣子が一番純粋な意味で浸っているところがある。
 最後の場面で、男性にサド的な立場を迫られた時、ベルトを打ち付け、麻衣子は嘔吐する。それは、遊びや乱れた形のサド・マゾの世界ではなくて、背理にこそ身体を預けなければならない、背理という存在こそが麻衣子の基盤である、純愛でしかない。それが倒錯であるのか、歪んだ性であるのか解からないが、俺が云えるのは、麻衣子自身が全存在を賭けて頼らねばならぬ人が背理という女性ならば、それだけで十分に純真であることを意味するに違いない。
 背理が子を孕むことによって、ストーリーはぶちぎられる。男女であれば、結婚なる終着(?)を得たかもれないが、女同士という同性ゆえに、いや、背理が女性という性であるが故に、麻衣子から離れねばならない結末が其処にある。麻衣子自身は変わらず、微動だにしないのだが、結局の所、変わらねばならない現実というものに追随できない彼女が残されるに過ぎない。
 なんとなく、これこそが「純愛」であって、一番エロチックだと思うのは俺だけなのだろうか。

 誰かを好きになるという行為は、それが誰でもいいのではなくて、その人だから、の部分に重点が置かれる。だから、セックスにしたって単なる性欲の対象ではないのだから、萌えるという行為が行われるとすれば、一人だけなんだろうな、と思う。
 男という性を受けたからには、孕むという現実は用意されないので、不純な動機を持っても不思議ではないはずなのだが、何故か俺にはそれがない。恋愛ということ自体に、性愛ということ自体に、形而上学的な意味を見出してしまい、それすらも己の実現という行為に含めてしまうからなのだろうか。
 ……にしても、最近は、やっと自己が独立した感じで、元の状態に戻ったが。

update: 1997/02/20
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