書評日記 第259冊
続明暗 水村美苗
新潮文庫

 男女の性差、時代の差、居住地の差、など、様々な違いの中で「続明暗」が作られる。こういう偏見からこの作品は逃れられない。
 読み始めた時、男性である夏目漱石の女性の描き方と、女性である水村美苗の女性の描き方の違いに戸惑った。最近の俺は、性差をことさら意識することによって、様々な差の部分を認識しようと努めている。還元してしまえば、それは個々の差に過ぎず、敢えて安易な同類を求めない厳しさに至れば、更に遠いものの方が数が多いことが解かる。
 そんな中で、「明暗」の続編としての「続明暗」ではなく、「続明暗」として独立した小説が其処にあり、水村美苗という作家が創った、「明暗」を読んでの語り継ぎという形式を借りたに過ぎない単体の作品というものが現われてくる。
 だから、「続明暗」を読み終えた時の感想から、作者のあとがきに繋がり、全くといっていい程の合理感を得たのは、批評しようとして読まなかった己の態度を示しているのかもしれない。

 津田、お延、静子のそれぞれの結末に、あまりにも落ち着くべきところに落ち着いている、という反意とも同意ともいえない感想を得る。ただ、これは、小説という世界の完結性を示している。万人が納得しないのは、その鈍感さ故のことであって、流れる者が陥ってしまうのは、やはり運命ともいえる逆らうことのできない土地への過程に過ぎないのではないか、という小説とも現実ともつかぬ感想を得ることができる。
 捻じ曲げることは絶対できない。決して、後悔をしない人生ならば、無理強いをするのは好まない。俺の人生というものがどのような分岐を持つのか解からないが、その場その場において、考えることが重要であり、一番良い解決方法を見つけようとする努力とその継続が、最終的に至る部分への道のりを形作っているのではないか、と思う。
 それは、諦めとして流されているのではなく、懸命に泳がねば何れは溺れてしまう自分というものを認識し始めた時からの俺の姿であり、俺の思考である。また、数々の小説の中から得られるのは、完結する美であり、閉鎖空間の中に現実性を取り込む芸術だからではなか、と思いつつある。

 「続明暗」が素直に読めるのは、水村美苗が「明暗」を読み、また夏目漱石の作品を読み、その中から自分の中の日本を引き出し、自分の中の「明暗」を引き出し、それに乗せて語る己の考えというものを、綴ったに過ぎないという、簡素さが理由なのだろう。

 ……最近思うのだが、俺の読み方は素直すぎるだろうか。小説をそれだけで独立させて、知的な遊びの中に自分を含めて、感情移入と映像化に人としての伝達の部分を求める方法は悪くはない手段だと思う。
 これが、何処まで通用するのかは解からないし、むしろ、通用しない社会が多い。ただ、失ってはならない部分だし、忘れてしまっては困る部分だと思っている。それを持つところに、焦点を絞るのが俺の姿勢だ。
 だから、まあ、無理に捻るよりも、受け取り方はこれでいいのかもしれない。

update: 1997/02/22
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