書評日記 第260冊
新刊を買って読むことはあまりない。文庫本を中心に読んでいるせいもあるのだが、世の中の流行に追随しようとは思わない。流行は流行に過ぎないのだから、出来ることならば先見の目を養うためには、目先の流行を追わない態度も必要であろう。
しかし、流行を流行と捉えてしまい、重要な部分を忘却してしまうのは愚かしい行為だ。他人事であっても、忘れないことによって、実体験に匹敵する記憶を持たせることも可能になる。「忘却」というものが日本人の本質であるのは解かるのだが、其処より踏み止まることこそ、日本人然たる己を認識するに至るのかもしれない。
現在、プーラン・デビィはインドの国家議員である。そういう地位を得たからこそ、このような自伝が出版されるに至ったのかもしれない。ただ、彼我の距離を鑑みれば、俺への影響は、彼女の大きな地位というものに関わっている。そうあったという彼女の人生を客観視する以前に、ただ、涙するしかなかった自分を省みれば、義憤というものや憐悲というものが、人間にとって本質の感情であると断言ができる。
この本から受け取るものは沢山ある。
プーランはマラッカというカースト制度では奴隷の位置に属する。無知な11歳の少女は、無理矢理の結婚、隷属、警官からのレイプ、従兄弟からの裏切り、人々の嘲笑、人々の無関心、等、あらゆる弱者の立場に置かれなければならなかった。ヒンドゥ教の神がどれだけ冷酷なのか俺は知らないが、全てはカーストという制度を受け入れるに至る無関心な人達の行為により、プーランは屈辱な人生を送ことになる。
この本における、あらゆる加害者は罪を認識していない。罪を認識するに至るのは、善が何であるかを知ることであり、無知であれば無関心であれば、罪を感じない。感じないゆえに、強者は弱者に辛くあたる。足の下が人であることを知らなければ、人は罪を感じない。
この自伝を読んでいる途中、俺が思ったのは義憤でもなく政治への不満でもなく、弱者であるプーランの立場であった。生まれた立場というものが、家族・両親・環境・身分というものが、そういう個人ではどうにもならない部分が如何に弱者に辛くあたるのかを感じて、涙という同意でしか俺は出来なかった。
プーラン自身は文盲である。本を読むことは出来ない。しかし、話すことによりこの自伝が出来た。投降後の11年間の刑務所での生活は、彼女の中の復讐心を和らげたらしい。数々の過去の不幸に対して、許すことを覚えたのかどうかは解からない。
ただ、何かを受け入れることによって、皆の支持を受けたのかもしれない。残虐性を発揮するのではなくて、屈辱を押し隠しつつ、大衆の寄るところのモラルに従った結果が今の彼女の姿なのだろう。カーリーとしての女神ではなくて、ひとりの人間として、そして、英雄としてのプーランが其処に居る。
update: 1997/02/24
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