書評日記 第261冊
わざとらしさのレトリック 佐藤信夫
講談社学術文庫
小説を書き始める。……と宣言しておけば、書かざるを得ない事態になるだろう。新聞の連載小説風に毎日すこしずつ書こうと思っている。一回に付き千字程度を目安にしているから、100回程度書けば、原稿用紙300枚程度になる勘定だ。
一番の問題は、毎日の部分でへこたれないか、なのだが、その辺はパーソナルなメモを付けることで、発散しようと思っている。
インターネットに載せるかどうかは決めていない。見られるという部分で「媚び」かねない自分を憂慮して、自分の中で暖めておくのがいいかもしれない。
社会学の次は、レトリックであろう。弁証法や修辞法を学んでおくのもいいかもしれない。また、読書の楽しみも文章への理解力を付けることによって、増えるというものだ。無論、俺自身は、書くという部分にも露呈しなければならないのだが。
レトリックの実践編ということで、佐藤信夫が実際の作家を例に挙げて解説している。彼の著作を読むのは始めてなのだが、非常に共感の持てる文章と文体であった。何故ならば、対象となる作家が、夏目漱石、小林秀雄、吉行淳之介、谷川俊太郎、井上ひさし、筒井康隆、ロラン・バルトなのだから、当然なのかもしれない。
特に筒井康隆とロラン・バルトへの言及は俺自身にためになった。言葉の二重性や、逆転する言葉や、言語は権力であること、記号学、贅肉と骨、は俺が薄々考えたことに確固たる根拠をつくってくれた。
勿論、小説を書く上で独特な感性というものは、自分の見方になるものなのだが、あやふやな論理基盤の上でなんとなく納得した形で自分を放っておくのは俺は好まない。いや、好まないというよりも、不安を感じるのである。決して、他人が好むようなSFだとかファンタジーだとかを書くことを俺は出来ない。どうやら、これは好む好まざるに関わらず、俺という人物に付随するものらしいので、捨て去ることはできない。そういう意味では、大衆には理解しえない、ちょっとばかし教養とそれに見合ったウィットのある人達が読者の対象となるであろう。
今のところ、俺一人しか読者はいないわけだが、安易な自己満足に陥らなければ、いいのではないか、と思う。誰でも、解かるわけではない。しかし、俺が思った夏目漱石の面白さ、その通りに、佐藤信夫が、漱石の「わざとらしさ」を指摘しているのを見れば、同じような感性を持った人はまだまだ沢山いそうである。
一体、何が面白いのか解からない。しかし、面白いと思うのは、何処かに繋がる理解なのだということは、佐藤信夫が「零度のエクリチュール」を読んだ時と、俺が「表徴の帝国」を読んだ時と同じ気持ちであったに違いない。
テクニカルタームに物怖じしない、戯れるという態度とささやかな知識があれば、知恵なる階段を上って行くのは、容易なことなのであろう。
update: 1997/02/24
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