書評日記 第267冊
最近の俺の常識は「利己的遺伝子」である。理論というものは面白いもので全てがひとつに繋がる。そもそも学問というものは、色々な分野に分かれてはいるものの、根底は「現実」という部分に繋がっているのだから、相互変換が可能なように出来ている。逆に、巷の似非科学を似非として判別するには、他の学問と照らし合わせてみるのが一番である。大統一理論ではないが、物事は統一を好む。それは根底より導き出されるからに過ぎない。
著者竹内久美子は「モラル・アニマル」の訳者であり、動物行動学者である。この「そんな…」の中には、彼女の専門であるからなのだろう。動物自体を例証にあてたものが多い。
利己的遺伝子の振る舞いを理解する上で重要な点は、理解されにくいという点である。なにか、妙な感じをするのは当然で、そもそも利己的遺伝子の意図するところは、微妙にカモフラージュされて、他人にも本人も気付かない形で表わされ、また、表わされなければ意味を持たないのである。騙すという行為自体に気付かれないようにするために、回りくどい遣り方を利己的遺伝子はとる。いや、回りくどいと思うのは、利己的遺伝子の意図であって、実は非常に単純な論理であるに違いない。つまりは、脳が脳自身を考える「ドグラ・マグラ」の世界を想像すると良いだろう。
ゲーム理論も含め、遺伝子の乗り物に過ぎない人体は、集団の中の個として、自己の遺伝子を繁殖させるために様々な動作を行なう。男性の立場から云えば、結婚なぞせずとも繁殖させる能力があるのだから、社会的な契約は多数いる弱い男性の伴侶獲得の手段に過ぎない。……実は、これは正しい。
そう、ミームというものも遺伝子に含めて良いということを知った。まさしく、竹内久美子と俺の意見は一致したわけだ。人間が社会を形作るなかで、ミームは欠かせない伝達子である。それは、ひょっとすると擬似的なものではなくて、言葉の二重化(物と物の意味)の部分と似ているのではないだろうか、と俺は思う。少なくとも、こうやってミームを撒き散らしている間は、俺は繁殖行動を続けていることになる。確証を得ることができた。
ただ、全てをこれで解決してしまうと、人生に面白味を感じられなくなるのではないか、と危惧するときもある。実際、今の俺は、論理的思考と感情の狭間にいて苦しんでいる。特に、本音を言うことが出来ない。いや、本音というものは、言葉で表わすことは不可能と知って以来、すべては物語の中に託すしかないのでは、と思い始めた。
どちらにせよ、馬鹿な振る舞いをしたくなければ、知識を得るのも悪くないと思う。ただ、明らかに馬鹿な振る舞いであって、白痴の微笑みのように、時おりその場限りの幸せを望もうとするのは、利己的遺伝子の囁きに過ぎないのかもしれない。
知らなくても良いかもしれない本ではある。
update: 1997/03/02
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