書評日記 第268冊
昭和30年代の小説というものが、鬱々とした気分を秘めているのは、その時代背景だからこそ、このような形態を産み出したのかもしれない。
実は「聖少女」を読んだのが初めてなのだが、この書評日記には記していない。すべての短編が実験的に見え、安部公房の小説を思わせる。
表題作「パルタイ」は、彼女の処女作になる。華やかさというものが一切ない。現実味というよりも、現実から得られる内省、そして、それらの異常空間の羅列のような気がする。最近の小説のように、読者寄りというものを意識するのではなく、ただ、ひたすら自分の意図するところ、感じるところを見つけ出し、それを小説という形式にして表現するに過ぎない直接的な言葉が其処にはある。読者は、まさしく貪るように読み、その異様な小説世界の中からこそ、自分の中のどろどろとした内省を表わす言葉、そして、それを見つけ出してくれる作家への共感を導き出したのではないだろうか。
少なくとも、村上春樹を筆頭にする現在の純文学にはない、鬱積した濃い感情が其処に描かれている。
同時代であるということは重要かもしれない。作家と読者の隠語の中から、読者はひとつの回答を得る。そのプロセスが時代に直結していて、するりと内面を表現する手段にぶつかった時、その小説と作家は成功を納めるのだろう。
表面的な優しさではなくて、内面的な残酷さをむき出しにすることで、倉橋由美子は今に至っているのかもしれない。それを、今流行(?)の「癒し」という言葉であらわすのは、躊躇われるものの、自らの感情を表現する言葉を失いつつある、また、受動的手段でしか得ることのできない消極的な読者、いや、現代社会の多様化に伴う表現要素自体の決定的な欠如を持つ読者に対して、ひとつの表現方法をしめし、感情の表わし方を指導しているのだろう。
それが、「やさしい」という誤解の多い言葉を選ぶのではなく、むしろ、残酷さの中の厳しさ、傷こそを受ける時にこそ、初めて痛みを覚えるという事実を選ぶのではないか。
するりと流れる流体ではなく、ごつごつとした、尖った魂の言葉を飲み込む時にこそ、自分の身体の表裏をひっくり返される歓びに浸ることができるのではないだろうか。
update: 1997/03/04
copyleft by marenijr