書評日記 第273冊
親鸞に触れることは、己の中の大津という存在に触れることに他ならない。煙草を吸うキリストという言葉を知った後、セックスを嗜む親鸞という言葉を知る。快楽というものに対して、いや、人間が生きるということに関して愚直に従うならば、野望でもなく波乱でもなく、一人の人物に与えられた仏よりの使命を全うすることが望まれる。まさしく、それ自体を意識することにより、ひとはひととしての成長を遂げる。
彼がその成長を遂げた故に、親鸞の名を語り、俺の原体験ともなるべき、彼女の破瓜という事実を作り得たのか俺は知らない。ただ、恋というものに対しての初心者であった俺にとっては、誠に厳しい試練であったことは確かなことだ。
怨むという未来を残すのか、許しという未来を作るのか……。どちらにしろ、己の正義に集うことのできない事実に対しては、徹底した拒否の言葉しか俺には見つからない。それが、単なる個人的な感情ゆえの蟠りであるのか、それとも、普遍的なモラル感からの怒りなのか、判然としない。
「女犯の偈文」、「如意輪観音」という用語を知ったのは、河合隼雄著「ユング心理学と仏教」を読んだ時であった。己の恋という現実に対して、このような適切な配置がなされているのは、不思議ではあったものの、読み取るという力が最大限に発せられていた時期であると考えるならば、それは、別に神秘的なものではなかったのだろう。
親鸞の生涯は、権威への反発であった。巷の仏教が、権威より擁護されることを欲し、上流階級に広まることを目的として、僧という地位を形作るための支配と利得との相互寄生状態であったことは確かなことだ。
そんな中で、来世への希望でもなく、現世への絶望でもなく、生きるための思想として親鸞の教えは説かれる。1200年代の日本における哲学であったのだろう。
「金剛信心」というものは、自己の絶対を基準にして生きることである。外部の価値というものは、当代の権威に他ならない。絶対基準であるところの正しいという概念は、ふらふらと変容する現世には有り得ない。それこそ、現世に君臨する権威への帰依に過ぎない。ゆえに、本当の幸せを願うならば、自己を信じるしかない。
ミダの言葉は、親鸞の言葉に繋がる。親鸞の言葉を信用しない者は、ミダの言葉を信用しないのと同じである。ただし、信頼というものは、自己の中に存在し、正しさというものは、自己の正義に殉ずる思想である。だから、語る者が親鸞であろうと、誰であろうとも、信頼されうる言葉と事実は決して変化しない。それは、ミダという絶対的な価値によって支えられている「本質」に過ぎない。
あたかも、現代の相対価値に反するようであるが、自己実現を為すという目的があるのだから、その拠り所として、自己を崩すわけにはいかない。現世の中のさだかではない大衆的な価値に己を見出すのは、やはり、無駄なような気がする。それは、大衆を否定するものの、個人個人を否定するものではない。むしろ、大衆というものに帰依してしまう個人を否定するものに他ならない。
「社会の縁」という言葉を信用するならば、辛くて当然である自分の人生を憐れむことはない。また、幸福というものに対して、決して甘えることのない自分を形作るのを止めるのは、「歎異抄」も示すところである。
つまりは、悩んでこそ本当の道を知ることが出来る。悩まぬ者には決してわからない、また、悩むことを恐れてしまった者には決して辿り付けない場所がある。其処に着いたか着かなかったは、自己だけが知る出来事である。
甘い現実に溺れなかった己を称える日が来るのであろうか。不幸である自分が人の幸福を望めないのは悲しいことなのかもしれない。せめて、不幸を願わない自分を残すことで、己の心を静めたい。
update: 1997/03/09
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