書評日記 第274冊
編集王 土田世紀
小学館

 別に生き方なんて大層なものを抱え込まなくてもいいという意見もあるかもしれないが、人としての豊かさを追求したいならば、自分の芯を捉えておくのもいいかもしれない。

 環八という元ボクサーが編集部にバイトに入る。彼は「あしたのジョー」を読んで、ボクサーになろうと決心して、引退した今でもその影響が大きい。
 ある意味で、馬鹿正直に近い環八の行動は、人生を巧みに渡る要領の良い人達には嘲笑の的かもしれない。いや、表立った嘲笑をしないとしても、現実に環八のような愚直な人間がいたとしても、親身を持って付き合うことはないと思う。そのような予測が立ってしまう現実社会に嫌気がさすし、そうならざるを得ない現実社会が更に嫌になる。
 ドラマチックではない現実というものには、本当にドラマチックなものはないのだろうか。

 生命力の強さを主人公環八に思う。そして、漫画家である土田世紀に感じる。ただ、疑問に思うのは、彼の「鯱」という短編集のあとがきにある「笑いながら…」の一文に俺は不満を覚える。
 作品の中の流れというものは、あくまで創作であるから、主人公等の言動やストーリーの結論が、そのまま作者の意図であるとはいえない。ただ、それを知らなければ描けない場面がある。本質的に捉えることができていないならば、薄っぺらな言葉や絵で紛らわせてしまう前後の繋がりの無さ、思慮の浅さ、統一感の無さ、に現われてくる。これは、本物と贋物を区別する唯一の方法であり、また、本物にしか持ち得ない正しさというところから出てくる作品にのみ与えられる称号だろうと思う。

 作品に対して、反感を持つのも読者の感想のひとつであり、それを誘うのも作者の技量である。果たして、やわらかな優しさのみを表に出すならば、受け入れ易い形でしか為し得ない安易な納得に読者は満足せざるを得ない。数々の作品が、娯楽と呼ばれるのも、現実の厳しさこそが現実であり、それを緩めるものが娯楽であるという、妙な現実感から出てくるものなのかもしれない。
 締め付けられる現実を苦痛なものとして捉えるには、想像力が必要である。それは、他人の痛みを我が痛みとして捉えることができる想像力、また、他人の希望を我が希望として崇めることのできる想像力を持っているか否かであろう。個人の意志は個人のみでしかない、との諦め、または、狭い意味での利己を推し進めるのは、結局のところは、不幸せをしらない人達の幸せごっこに過ぎない。
 隣人が隣人でしかないと思うのは何処かおかしい。隣人より始まる人間関係の中で、熱情というものが共同作業への最短距離であるならば、それに身を投じても惜しくはない現在の地位、いや、現実よりも夢を持つこと、夢を叶えることへの過程こそが第一であるという想い。それこそが、隣人をして排他的な他人を作らない心情を形作ることができるのだろう。

 だが、残念なことに人はそれほど人を欲してはいない。潰れて初めてわかる人の大切さでは何もならない。刹那的な現実の地位にしがみつこうとして、人を省みないのならば、彼を軽蔑することしか、俺には残されていないのだろうか。
 馬鹿のように邁進してみたい。不完全な未来を信じるのではなくて、積み重ねのある現実からの未来への道を信じたいし、それを心に秘めて行動をしたい。

 大学の頃、友人宅で「あしたのジョー」を読み、灰になったジョーは幸せであったが、灰にはなれぬ自分達を省みて呆然となってしまったことがある。しかし、灰塵とはならぬ、現実の人生の中で、灰なる人生を求める環八の姿は、決して馬鹿とはいえぬ力強さを感じる。そして、俺は、青臭くはあろうとも、真実を真実として生きる道を欲するし、また、それを行おうとする者を決して笑いたくはない。
 学生だから馬鹿であるのは仕方がない。でも、社会人となって馬鹿でしか生きられない人であるよりは、要領が悪くとも自分の心に正直でありたい。
 環境が苦しければ、場所を移せば良い。世界は広いのだから、狭い部分に固執することこそ愚かではないだろうか。

update: 1997/03/10
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