書評日記 第294冊
図書館から借りてきた本。
其処にあると覚えておけばいいのだが、手元にないと少々寂しい感じがする。参考文献として、いつでも見られるように手元にある、という安心感がなくなる。……尤も、安心感だけ、なのかもしれない。
「オートポイエーシス論は新しい理論である」とこの本に書かれる。
本質は、自己が自己を生み出すということである。
時間の連続性の中で生み出される、自己から自己に繋がる言及の中に、自律としての本質が潜む。
もともとは、神経系の解説らしい。
どの分野にも応用できるというのは、現代思想の常であり、それが「現代」に限るのか否か今はわからないが、少なくとも、現代に生きる自分には、この理論を推す理由は十分である。
自己を生産するために、その関数のパラメータに、時間と自己と生産の過程における新たな変数を想定する。
f=f(x,y,z,t,□,...,f)
という数式から、不確定原理の包括をみることが出来る。
観察者が選び取るのは観察の一面であり、平面上に写し取るのは、時間の関与を排斥していることになる。また、ダイナミックに動作する現象自体は、ダイナミックに動作する因果に支えられる。つまりは、変数そのものを固定すれば、動的に変化する変数□を想定することはできない。結果を形作る変数は、過程によっても生み出される。まさしく、過程こそが、ひとつの変数として、その数式の中にあらわれ、そして、fという自己を含むことが、自己が自己を為すところの促進のパラメータを表わしている。
自己言及の中から生まれ出てくるのは、熱力学の第二法則に反する。しかし、神経系が、結束と離別を繰り返し、エントロピーの増大からは遥か離れたところの、効率の良さに落ち着き始めるのは、つまるところ、動的に変化する神経系の動きそのものが、神経系のから生み出される個々の時間の理論を支えているからである。
ある意味で、私にはとても当たり前で、理論ではないけれど、体験として知る事実のような気がする。
それが、何故、当て嵌まるのか否かと考えるのは、不遜であれ傲慢であれ、「事実」そのものを事実として把握し、再構成する流れから選られる事項である。
「真理か非真理かを問うことは真理か非真理か?」
自己言及の中に潜む矛盾に陥らないのは、それに気付く敏感さが必要である。気付かなければ、矛盾ではなく、真理になる。
update: 1997/05/13
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