書評日記 第310冊
トーマの心臓 萩尾望都
小学館

 少々感傷的に……。
 トーマの死よりストーリーが始まる。彼の自殺の責は否応なくユーリに背負わせられる。ユーリが苦悩し続けるのは、彼自身の感受性の深さのおかげであって、最終的に彼が死という「単純な」結果を選ばないのは彼の精神の強さにある。褒め称えるべきは彼の踏みとどまることのできる強さであり、彼の現実は「神学校」という形で自己実現を成すに至る強さである。
 人が自らに課してしまった(それが偶然であろうと必然であろうと)責務に対して立ち向かうのは、己から抜け出せないことを知っているからである。ひとつひとつの積み重ねが辛くなってしまえば
楽な生活を選べば良い。

 忘れられない事実に対して、忘れないという態度を固辞していくのは、二度とその悲劇を繰り返したくない自分を想うからである。その自分の課した枷に押しつぶされてしまったとしても、本人にとっては本望であろう。それが、自殺という形という生命に対する反逆であったとしても、寺山修司の云うところの「自らの意志による死」を表現する形としては、それしか方法がない時もある。ただ、自分のことを云えば、すべてを成し遂げてから、自殺をする。それが第一条件である。

 愛を語るならば、愛に応える対象があり、そして、愛の重みに耐えるだけの心の準備が必要になる。さもなくば、浮遊する仮初の愛の言葉の中に先行きを見出すことはない。……むろん、これが「ロマンチック・ラブ」の定義でしかない。人から見れば苦しみの中に苦しみを見つけるようなあり地獄の状態に見えると思う。そんな風にしか見えないのかと、他人を想う。
 少なくとも、私には、私の愛の形が見えない。望むも望まれぬも達成しない愛の形に私は苦悩し続けるしかない。ただし、今後一切を望まぬとして、沈黙の中に沈んでしまうのもひとつの方法である。
人が嫌いなのではなく、人を愛するが故に私が自らが放ってしまう言葉の重みに耐え兼ねる人々、そして、それを想う自分、その様々な重圧に私は負けそうになる。

 果たして、人はそれほどものを考えているのか。
 他人という言葉が、私の周りの人々の中でどの領域から始まるのか。両親が他人の始まりならば、兄弟が一番最初の他人ならば、そして、いつまでも他人でしかいない他人である人達と、私はどういう距離を測っていけばいいのか。

 ユーリが一人沈んでしまうのは、自分の他に他人しかいない現実を自ら構築してしまうに過ぎない。日々を過ごす仲間達の中に「友人」というものを見つける(または、見つかる)まで、彼はそのままの状態が続く。変容するのは自分であるのか、それとも、環境であるのか。人はどうやって、人に近づき、他人から別の存在(友人なり恋人なり)に「なる」のであろうか。

 血の繋がりの中から「両親」と「兄弟」という関係が生まれ、それを基点として「家族」が存在する。しかし、家族から遠く離れた者たちが他人であり、決して介在して来ない他人という集団を他人のままにしておくならば、人々はどうやっても血の繋がりから逃れ得ない。
 私にとって、両親は他人よりも遠い存在だったに過ぎない。他人はそれよりも遠い。遥か遠くに人がいる。存在だけが仄かに香る。

 積み重ねをすることに辛くなってしまった時、楽な道を進むべきなのだろうか。楽な道を進んでしまった時、積み重ねをしない自分を辛く思うのではないだろうか。そんな不安に掻き立てられて何かをせずにいられない、また、「創造」ということに専念する私の心象を誰も理解してはくれない。そう、この科白が甘えであったとしても、吐かなければ耐えられない。人前で「さびしさ」を披露するのは、私にとっても、ユーリにとっても、できない行為であるという証拠に過ぎない。

 人には二度 死があるという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死

update: 1997/06/08
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