書評日記 第316冊
ある流刑地の話 フランツ=カフカ
角川文庫

 カフカのおもしろさは、ジャリと同じ。キリコと同じ。
 原○○を共有するおもしろさ、だろうか。

 巷に溢れるテクストもどきと違って、対極と対極が一致するところに覚える不思議さを持ち合わせていると思う。
 むろん、テクストもどきだって、一瞬のときめきを感じる時もある。ただ、同人物のテクストもどきをいくつか読みこなすと、ときめきがだんだん薄れてくる。そんな空しさを感じてしまう時、「ああ、これはテクストもどきなんだな」と思う。
 逆に、カフカの小説を読み進めると、ときめきは輝く。自分の中のときめきが明らかに重なりを持つ感じがする。いくつかの小説を読んでもそのときめきは変らない。
 もちろん、カフカというネームヴァリューが先にあるからそう思うのかもしれない。カフカという名が書名に記されていて、カフカの小説だから、ということが念頭にあって読み進めるから、ときめきが消えないように見えるのかもしれない。
 ひょっこりと、カフカの小説が、WEBにあった時、それに気付くかどうか私には自信がない。

 『筒井康隆の小説はリリカルである』

 自分の文章の魅力とはなんだろうか?
 還元すればその人の魅力とはなんだろうか、ということになる。
 言葉は心から外れないところにあるものだからこそ、文章自体に人のすべてが現われる。また、文章を書きこなすことによって、書き込んだ言葉から自分自身が教わることがある。

 まあ、つまるところ、それが私自身の文章法だからであって、私以外がそうやっているとは限らない。どんな書き方をしたって変らないものが其処にあるということ(また、それを見出すこと)を信じるか否か、実践するか否かはそれぞれなんだろうと思う。
 他人の文章は自分から映し出される他人と強調される自分の影であるから、自分に含まれないものは影には映らない。また、映し出されているものを見るか否か、見ているか否か、見て理解できるか否か、理解しようとするか否か、自分の今後にフィードバックさせるか否か、忘れないか否か……等、たくさんの分岐がある。できることならば、否でない方がいい。
 排除するよりも包み込むのが女性性。ばらばらに切り離し分類して敵対するのが男性性。
 あらゆるイデアを感じて、イデアそのものを文章と小説と文体に託す。
 直結する感覚は、密着とは程多い。一瞬の接触に近い。一点だけ接する直線と円の接点の関係。

 論理性を重んじるから、いや、論理性でしか私は感じることができないから、巷でいうテクストもどきのおもしろさは、私は遠いものに感じる。
 心で感じたものを文章にする時にさぼってしまった時に意味が流れる。
 逆に、心で感じようとする時に文章から得られるものを奪うべきものをサボってしまった時に意味がこぼれ落ちる。

 そうそう、アンデルセンの童話を社会学的に読み解いて、子供には向かないという科白の胡散臭さは、「飢餓芸人」を現代の童話として復活させるのをはばむような気がする。

update: 1997/07/14
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