書評日記 第317冊
小川未明は「人魚と赤いろうそく」という童話を書いた作者……というのをこの本で初めて知る。
「人魚と赤いろうそく」は、小学5年か6年の国語の教科書に出てくる。
最近、記憶力が良い……というか、昔の記憶をよく思い出す。
童話というものが子供に与える影響を大人が考察するのも変な話で、本当のところは子供自身が自分達に与える影響を考えるのが一番わかりやすく正しい。むろん、その子供が使う言語&思想体系が子供社会に根差しているわけだから、大人社会の言語&思想体系に変換しなければならないので、やっぱり、大人からみた子供の反応を大人なりに観察&記述するしか方法がないのだと思う。
そんな中で、大人の身体をしていても、子供の部分を意識的・無意識的に残している人達がいる。
無意識的の場合、大人社会に不適合なオトナコドモの集まりに過ぎなくなるのだが、其処からさえ排除されてしまう時、大人の身体にある純な子供の部分が、何かのはけ口を求めて足掻く。
童話と童話もどきの違いは、はけ口を求めて足掻いているかどうかに掛かっている。だから、童話もどきは童話にはならない。逆に、童話は童話もどきにならない。
オトナコドモは、子供もどきであって、子供ではない。彼らの欲求は子供のように素直ではない。いや、金銭や競争に価値を見出した(またはそのように反応付けられている)子供達はコドモオトナと呼ばれ、《子供》とは区別される。彼らはファミコンと塾によってオトナになる。《子供》は自分自身を殺すことで《大人》になる。
ただ、《子供》をそのまま抱えてしまうと《大人》になり損なう。そのまま《老人》になる。老齢ということが知識の骨頂を意味するとすれば、《西洋の厳格な老人》は大人社会が子供社会に対する隔絶の象徴であり、《東洋の好々爺》は大人社会が子供社会を取り込む許容の象徴になる。
うーむ。
つまりは、私自身の考える大人と巷の大人の違い、私自身が描いていた大人像というものが、この大人社会には見当たらないことに戸惑っているのだと思う。
むろん、その「戸惑い」は、大人とは別種の立場(この場合は子供)から眺める絶対的な観察者が、被観察者となるべき道筋にいることを示しているわけなのだが……。
この辺は、未だモラトリアムの最中(乃至、既に老人?)の私にはよくわからない。まあ老人であったとしても、「老人→死→再生→子供」のプロセスを幾度となく繰り返せばよいのだから余り問題ではない。
中勘助と違うのは、彼が子供そのものであるのに対して、小川未明は一歩離れたところにある子供とは違う立場(つまりは大人)を意識しているところだろうか。
ただ、中勘助の場合は、富岡多恵子著「中勘助の恋」を読むと、その無邪気さが外部を意識しつつのいやらしさであったことを思い知らされる、のだが。むろん、そのような個人的な分析から来る中勘助自身の人生の思惑と、彼の作品そのものとは分離されるものなのだが。
「鯉と千代紙」をパロディ(模写)していて解かったのだが、小川未明の童話はやはりプロフェッショナルの技を含み、それはきちんと《童話》であるということ。
昔読んだ「ファンタジー小説の書き方」によれば、ストーリーは記号の組み合わせとして成立させることができる、という。
いわゆる、ストーリーの中の象徴の浮き彫りの確認。
既存の記号の組み合わせによりストーリーは成立するのだが、私の頭では考え付かないであろう部分に飛んでいくという軽やかさが小川未明の童話にはある。突飛ではあるけれども、童話のストーリーとしての展開を崩しているわけではない。童話のルールには従っている心地よさを感じさせられる。
読者は小説に閉塞した理を求める。読者からみた小説の空間の中での理と、読者の世界では決して成立しえない理の綾を、小説の中で楽しもうとする。また、作者はそれを描き出す。いや、風景画を描くといった方が正しいかもしれない。目の前にあるものを写し取る目。
update: 1997/07/16
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