書評日記 第319冊
高校生を主人公にして自由奔放なセックス感を描くところで、その反対の結末を描く話。
端的に言えば、村上龍のような舞台装置を使って、村上龍とは違った場所に至る話。
私にとって村上龍は、一般名詞「村上龍」が存在するだけで、現実に存在する作家村上龍を示しているわけではない。私自身の反対にあるところの象徴。
一方的なセックス感。女は男に犯されなくてはいけなくて、男は女を犯さなくてはいけない一般論。セックスは性器を使っての結合であって、それによって子供が産まれたり、女が強姦されたり、お金がかかったり、春を売ったり、するありきたりな考え。男は風俗産業を高進させて、女はバーやソープランドで働くように義務づけられる世界観。
……というのは、私にとって一般論であるに過ぎない。
多分、誰にでも一般論であるに過ぎなく、自分とは別のところにある論理であって、自分がその一般論に含まれるかどうかは、全く別ものである……と暢気に私は思っていた。
どうなんだろうか?
それでも売春は存在するし、春を売る女はいるし、春を買う男はいる。それぞれ金を使って情交を為して(別に為さなくてもいいけど)、男は女に対して金を払いセックスをして、女は男から金を貰ってセックスをする。
男も女もこういう形で情交を進めているような気がする。
だが、私は疑問に思う。
「だが」が、私だけがそう思うのか、それとも他の人もそう思うのか、それとも他の人の中でもほんの一部のひとだけがそう思っているのか……よくわからないが、私が疑問に思うのは確かなことだ。
人は自分の感覚が「固定観念」に縛られていることを意識して、ものごとを感じ続けているのだろうか。ひょっとしたら、自分の持っている「一般概念」は他人の持っている一般概念とは違うものだと感じ続けているのだろうか。
自分の思っていることは、結局のところ、自分を動かすに正しいだけの論理構造しか持たなくて、それ以外は自分に関わりのないこととして意識にのぼらないことを感じ続けて日々を生きているのだろうか。
他人と自分とは違う存在である。だから、自分は孤独であるのだろうけども、そうなれば未来永劫自分は孤独であるに違いない。どこにも居場所がなくて、どこにも安らぐところが無くて、将来的にもそれらを望むことができないとすれば、一体、自分の存在する場所はどこにあるのだろうか。
「他人様」でしかない周りの人達。生き死になんてうわべだけの話で、誰もがすれ違いだけの一時を楽しんでいるだけで、決して「他人様」から別の存在にならない(なろうとしない)現実の中で、私はどうすればいいのだろうか。
……いや、そう、これさえも私自身の「妄想」に過ぎない。だが、他の人から見れば私の妄想に過ぎないものであっても、私が常にそれによって苦しめられるのはなぜだろうか?
「流刑地より…」は、私にとってあまりにも幼すぎるような気がする。むろん、スピード感があるとか、リズム感があるとか、そういう点ではおもしろい。だが、そうでない点を今の私は求めていて、また、そうでない点を構築している。
私の文体は決してポップではないし、私の本質は決してポップではない。
なぜそうなるのかといえば、ポップでは決して伝わらないと思われる私自身の足掻きの構図が其処に存在するからに過ぎない。
ほんとうは、もっと気楽に生きたかったのにと後悔する。
誰もが同じようなものを見ているのかどうか疑問に思う。
ただ、確かなのは、私は、見てきた人生を送って来たし、平凡であるはずなのに平凡ではない人生を送って来たような気がする。
そう、『高校ってもっとありきたりな場所だと思っていた』。
update: 1997/07/20
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