書評日記 第318冊
バッハの芸術と生涯
岩波文庫

 「学術的に」ではなくて、「同時代的に」バッハの音楽を紹介した本。
 どちらかといえば、バッハを紹介することによる著者の時代というものを、感じつつ読みすすめるというメタ的な捉え方になる。
 それは、著者が現代よりも古い観念によってバッハを論じなければならかった、という歴史を論じるところの当たり前の不幸がそこにはある。
 果たして、「バッハを芸術家ではない」とするにはバッハは現在において芸術家すぎる。しかし、バッハの名を芸術家として世間が認めうるに足る時間は100年でも短かった。
 むろん、それほど不遇な生涯を終えたわけでもなく、彼は同時代においても裕福であり、有望な才能を持つと認められて活動することを許された。
 ひとりの人間として、彼が幸福に足ると思える量は、さほど多くはないのかもしれない。
 当然、現代の物量の価値に脅かされる日々を暮らすならば、かつてのバッハの過ごした時は、実のところは現代の云う幸福とは違ったものであるかもしれない。

 一体、バッハの得たもの=幸福は何であったのだろうか?

 後世から見るバッハの栄誉は、バッハ自身が味わうことなく過ごした栄誉である。未来からの羨望は過去へは届かない。
 となれば、バッハ自身が彼の芸術を生み出した原動力となるものは、果たして、彼の生きている道筋の中で幸せな日々であったのか、それとも何かを渇望し続ける日々であったのか?

 つまりは、成功への手順を考察している。
 ここでは、「自らの成功=自らの幸福」と考える。つまり、成功したという感情そのもの、成功したという達成感そのものが、自分をして幸福な状態である、と感じるように条件つける。
 もちろん、成功が、地位でも金でも名誉でも子孫でもなんでもかまわない。それが殺人であろうともかまわない。倫理は問われない。それが、自分の幸福の状態を保つに足る要素であればかまわない。

 バッハの生きた世界は、バッハの周りだけで閉じているのだと思う。バッハ自身が、バッハの栄光を知る(バッハの能力をバッハと同じように感じる)人達の間で過ごすことができたのであれば、バッハは自分の不幸を知ることは無かったのではないだろうか。
 また、バッハが、彼の幸せは彼の言動でしかうまれ得ないことを知っていたならば、彼は彼の生前のうちに幸福と感じる瞬間を持ち得たと思う。

 様々な欲が出てくるのは、情報のためなのかもしれない。
 あちこちで見える幸福のように見えるものがある。これが、《幸福》であるか否かは別である。少なくとも、《不幸》の素になることは間違いない。
 一見、情報過多のようにみえて肝心な情報は伝わってこない。表面的な幸福さ・不幸さしかこちらに伝わらない情報社会の中で、人々はその情報の中に自分の作り上げた《幸福》と《不幸》をあてはめようとする。
 交換してしまえば、実のところは、満足とは程遠いのかもしれない事実と環境があるだけかもしれない。
 それでも尚、人の幸福を羨み、また、自らも幸福に、そして、自らを幸福への行動へと誘うのは、やはり、生き残りたいからなのか?

 ダーウィンの子供は7人。
 バッハの子供は20人以上。

 優生学を導くまでもなく、世の中は優生を望んでいる。
 少なくとも、私自身にとってバッハの知的さは、私の知的さと通づる。当然、ホフスタッターにも通じた。
 

update: 1997/07/17
copyleft by marenijr