書評日記 第325冊
哲学書も通俗小説も同じように読むのはいけないと思うのだが、やっぱり同じように読む。ニーチェの「パンセ」版だと思う。
『善とも悪とも離れたところにある彼岸から物事を眺める』
つまりは、絶対的な真理を追究した時に、それは善であるのか、悪であるのか、という話なのだが、実のところ、真理が善の基盤になり、その真理は善を基盤としていると考えるならば、論理展開の上で、真理=善となる。また、真理とは、絶対的な真理であるからこそ真理であるとすれば、すべての真理は一瞬も疑われることのない真理の基盤を築く。
要は、真理や善や悪を言葉に表わして人に伝えようとする時に、シニフィエとシニフィアンの分離が起こるのだから、言葉にしなければ真理も善も悪も常に真理であり善であり悪となる。
こうなると禅になってしまうのだが、永遠に沈黙しているわけにはいかないので、誤解を畏れつつも誤解を恐れず言葉を使うことになる。また、人は、言葉を使うことでしか伝達を確実にこなす方法を知らない。
神の信奉者に「あなたの神は…」と尋ねることほど奇妙なことはない。かの人にとって、神とは、唯一絶対のものであるから、質問者の頭上に君臨する神も、かの人の信奉する神も同一である。
神を捨て去るという作用は、フロイトが性器に執着したのと同様な理由に思える。神を自らの心の中に取り戻すこと、自分の行動原理を自分の中で統治することによって、己という存在は、他人の神とは別ものになる。思想を殺すためには、ひとつのパフォーマンスとひとつの衝撃が必要になる。
哲学者が「女」を創り出すと言及する。ニーチェ自身が女性に対して、人を見出し、男性であるニーチェと同様なところにある女性の中の男性性を見出し、その上で、男性である哲学者が創り出したところの「女」という象徴を廃棄しようとしたかどうかはわからない。
ただ、私も男である限り、前例の中での「女」という象徴を自分の中にもっているし、また、実際の女性にあたるときに、内部的な「女」を当て嵌めようとしているに違いない。
それは、還元してしまえば、自分と他者という関係の中で、現実に存在し得る無数の他者を自分は判別し得ず、また、絶対的に情報が足りないゆえに、他者に対して自分の中の典型を当て嵌めずにはいられないジレンマを意味している。
悪を知らなければ悪に騙されるだけに過ぎない。だから、人は悪を抱え込みつつ、悪の典型を自分の中に作り上げつつ、さまざまな他者に対して、自己の生存のために、生物淘汰のために、他者との関係の中にひとつひとつの疑いを持つことになる。
同じことは、善を知らなければ善に関わることはできない。
所詮、限りある時間の中での関わり合いは、限りある他者との関わり合いにすり替えることができる。全体を一時に把握することができないのは、情報の円錐があることを意味し、それは、結局のところ、その場の知識や経験や憶測によって対処せざるを得ない現実の連続があるだけになる。
だから、少なくとも言い訳をしない言動を用意するのも、ひとつの人生の手段であるし、言い訳をするような人と関わらないのも人生の智恵に過ぎない。
update: 1997/07/30
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