書評日記 第326冊
スケベオヤジと風俗嬢の話。
結論から言えば、結局、ペニスとスペルマとアナルセックスに落ち着いてしまうのは、「究極の快楽&刺激」を求めるにしては、あまりにもおざなりな感じがしないでもない。
果たして、現社会の基準を侵すことなく、性器による快楽のやりとりの姿に落ち着いたのであれば、それでいいのだけども、ひとつひとつの作品を読むと、これよりはあれがいいし、あれよりはこれがいいし、というような比較的な面白さに落ち着いてしまうし、その中では、どうしても「トパーズ」の各作品は、二の次に落ち着いてしまう。
それは『そろそろ文学作品を書きませんか?』というような編集者のトンチンカンな質問ではなくて、ベストセラー作家となっても、ベストセラー作家の衣の中でうぞうぞ蠢く遊びの部分が少ないという失望感だろうか。
所詮、村上龍はこの程度なのだ、というような、「悪徳の栄華」に比較してもそれに対抗するわけでもなく、それを知っているからこその知的遊びでもなく、また、村上龍ならではのという遊び方ないし遊ばせ方ではなく、どうも攻撃力が弱いような気がしてならない。
むろん、その一歩下がった謙虚さ(?)が、ベストセラー作家になる秘訣だとすれば、学ぶべき点も多いと思う。
毒にするにも薬にするにも弱いのかもしれない。
それが、筒井康隆の「エンガツィオ指令塔」を読めないような、一般読者層を対象としているのならば、それでいいのかもしれないし、そこで留まるのもいいかもしれない。
多分、私が村上龍に対して腹が立つのは、村上龍をべた褒めにする批評家の言葉があまりにも「べた褒め」過ぎるところだろうか。わかっていそうで解かっていない。所詮、一般大衆を主流とするようなゴシップ誌に載る書評であるから、一般大衆を主流とした快楽を追求する作家・村上龍を批評しておけば……というような、馴れ合いの相互扶助のような嫌らしさを感じる。むろん、これらの批評に村上龍には責任はないのだが、このような書評を書かせて良しとするような雰囲気が村上龍自身に漂っていることを指摘するならば、彼は、もうすこし、マジメに何かを考えるべきではないかと思ってしまう。
アナルファックを別にして、快楽と刺激を追求するならば、「銃夢」の方が数段おもしろいし、刺激的である。多分、村上龍は、「銃夢」を知るまい。別に知らなくてもいいことは一杯あるのだが、同時代に、または、前世代にあるものを、自ら嬉々となって前衛であるかのように振る舞って、ベストセラーという妙な地位に安住するのはどうか?、と思う。
少なくとも、女の頭蓋骨を顔の下半分を残して引き千切り、左脳と右脳の隙間を目指して、ペニスを突っ込みセンズリする方が、幾分なりとも刺激的な情景だと思うのだが違うのだろうか。
草野仁でさえ、バラバラになった頭と頭をひっつけて同性愛を演じる余裕があるわけだから、もう一息が欲しいところなのだが、そこは、ベストセラー作家のモラルなのかもしれないので、これ以上追求はしまい。
結局、そう、お人形さん遊びをしているに尽きるような気がする。ちょっとした芸を観客に見せてちょっとした寺銭を稼ぐような感じ。作品の中にあるコアを追求・言及しないのが原因ではないだろうか。
update: 1997/07/30
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