書評日記 第328冊
「燃え上がる緑の木」に登場する領事館長が親しむイエーツだと思うのだが、さだかではない。
ギリシャ神話やローマ神話は、心理学的に西洋文化のバックボーンを担う。神話が神話たり得て、現代にも伝えられるのは、皆が同じ象徴を持っていることに過ぎない。つまりは、三キログラムに足りない頭脳の中には記号が一杯詰まっているだけで、事実そのものは何一つ置かれていないことを意味する。だから、ひとつの事実は細部を削ぎ落とされて象徴になった時に人の記憶として残る。そして、思い出すという作業は、その象徴に自分なりの肉付けを行っているに過ぎない。
そういう、圧縮と伸長を繰り返した結果、ひとりひとりが有効に持っておく記憶の姿の形として、物語性が存在し、神話というものが浮かび上がってくる。
だから、さまざまな神話の中には、人としての象徴が埋め込まれていても不思議ではなく、また、象徴が埋め込まれているからこそ、人は神話に親しみを感じてそれを後代まで残そうとしてきた。
妖精という姿が魅惑的であるのは、魅惑としての記憶を「妖精」の中に封じ込めようとする作用に過ぎない。また、「妖精」というものを心の中に持つことによって、魅惑というものに形を与えることを意味する。だから、妖精は魅惑的でなければいけないし、妖精の話は自然と魅惑的にならざるを得ない。
ケルトという場所が、妖精に対してひとつの故郷を持たせることができる。些末な流行語とは違って、過去から培われてきたものは未来へと培われる要素を持っている。むろん、新しいことが次々と加わるのも事実なのだが、もとを辿れば、もとを辿ったなりの道筋があるような気がする。
人と人とが個別に生きようとするかそ、中間に妖精を媒介することになる。離反のみでは生きていけないし、協力のみでも生きてはいけない。だから、それらを往復する時の折り返し地点に「妖精」を据える。悲しみに暮れれば、楽しさを妖精に求め、楽しさに浮かれ過ぎた時には、妖精によってひとつ滴の悲しみを作用させる。そういう、感情の起伏の中にこそ、心の豊かさが培われる。
決して求め続けるというような積極的な行動を示すのではなく、日常の中に忘れてはならないもの、自己に対する意固地さを和らげるものとして「妖精」は存在するのではないだろうか。
それは、多分、智恵というものだと思う。英知というほど賢くはないが、日常の中でのささやかな楽しみを、ささやか以上にする楽しみ方を教えるもとになるものではないだろうか。
だから、「月明かりの夜には、窓べにミルクの入ったコップを置くとよい」、という逸話は、知らないよりも知っていた方がいいということと等しいと思う。
update: 1997/07/31
copyleft by marenijr