書評日記 第327冊
フィジーの小人 村上龍
角川文庫

 これは、随分最近の小説。まあ、最近とはいえ、2,3年前なのだと思う。「海の向こうで戦争がある」の巻末に村上龍の年表がある。処女作「限りなく透明に近いブルー」に相当引きずられているような気がするが、それが彼の商業主義なのか、それとも、彼自身望んだことなのか私にはわからない。
 まあ、年表の方は後で考えることにしよう。

 「フィジーの小人」は、南洋という舞台で描かれる。端的に「ドラック」に手を出して端的に「快楽」としてしまうよりは、南洋というぼんやりとした暑さの中で、ぼんやりとした快楽に身を任せるの方が健全(?)のような気がする。
 幻想の中に過去は存在しないのだから、記憶することは何もない。すべては、一瞬の時のためにあり、前後の因果関係を外れたところにあるひとつの孤島にある流れ得ぬ時間を共有することに他ならない。
 でも、この雰囲気を味わいたいならば、ヴォネガット著「猫のゆりかご」とか「ガラパゴス諸島」(著者は駄作というし、私も駄作だと思うけど)の方が、南洋の快楽のスタイルとしては似合っているような気がする。

 小人と中国女、という登場人物はあまりにも象徴的すぎる。むろん、普通の人(=一般大衆)に対比するところにある、不具者の象徴としての異化効果として小人と中国女という形式ととるのだろうが、果たして、その異化がさほど効果的になされていないのは、あまり小人と中国女という象徴を考察していないからではあるまいか?
 むろん、「裸」という象徴、衣服を捨ててしまうところにある日常とは離れた部分、幻想の中であっても幻想すぎる部分、それが、漂うニンフォマニアの匂いであるという主張であるとしても、あまりにもおざなり、というところだろうか。
 松浦理恵子の「親指P」を越える気は、村上龍にあったのだろうか?

 日常から脱却しようとしているフリ、をしているのが見える。あくまで「振り」であって、実際に日常生活から脱却することはしない。空想はもっと自由なような気がする。時々感じる「気がね」は何だろうか。
 当然、それが、ベストセラー作家であるところの、一歩引いたところにある一般常識なのかもしれないが、村上龍の豪語する「究極の快楽」の「究極」の部分は、そんな閉鎖的に相互理解の淵に落ち着いてしまうようなものなのだろうか。

 「マシアス・ギリの失脚」もそうなのだが、作家が安全なところにいるような気がする。それは、危険な部分を知ってそうしているのか、危険な部分を知らずにそうしているのかよくわからないのだが、遊園地のジェットコースターが絶対安全であるからこそ、幾度となく御遊びの恐怖を味わうことのできる楽しさに甘んじる部分を感じる。いつ、レールを飛び出してしまうか、虚空の中に突き抜けてしまうかわからないジェットコースターとは、違う恐怖があり、あくまでも疑似的な部分を相互に納得した上の恐怖という、決して飛び抜けない面白味のなさを感じる。

 この世にあるものは全て許容するという心意気が欲しいし、そういう目が欲しい。
 ただ、そうしてしまうとベストセラーにはならないと思うけど……でもないか、「村上龍」ラベルがあれば売れるのだから。

update: 1997/07/31
copyleft by marenijr