書評日記 第335冊
裏表紙の紹介文句にへなへなとなる。
『……時代を駆け抜ける爽やかな風とともに送ります』ってなあ、という感じ。爽やかという形容詞を使うのだったら、最初から「やらせてくれた女」というフレーズを使うのにはやめておいた方がいいと思う。どうもこの辺、村上龍はちぐはぐのような気がする。
青春小説の分野に入れられるだろうから、原田宗典だとか庄司薫だとかと比較すればいいだろう。そうなると主人公の青春の哀れさ(……を書こうとしたのかどうか疑問はあるのだが)という点では、一段も二段も落ちる。
結局、オバサン達とおめこしたり、おじさんのフェラチオしたりして、パン助だのなんだの嘆いている割には、この主人公は自らその状況に安住しているに過ぎない。
「必然性」というものが限りなく少ない。それは、山田詠美の「ベットタイムアイズ」の彼が黒人であることへの必然性の問いではなくて、青春小説なりであるべきところの「成長」という部分がない。
多分、村上龍は18歳の頃に既に今の村上龍を完成させてしまったのだと思う。そして、今の村上龍から見る若き頃の自分という形を彼が行った時、実のところは、今の自分と同じものを「若き○○」として見ていると勘違いしているだけではないだろうか。ただし、18歳にての完成が小説家としての完成を意味しているわけではない。それは18歳の完成がそのまま保留の形になって現在の村上龍を形作っているだけに過ぎないのではないだろうか。
もちろん、これはマイナス要素だけではない。文学者としての完成はないかもしれないが、常に若い感性(それが時代の感性とは別だとしても)を持ち得るずぶとさを村上龍は有していると思う。だからこそ、スター的要素を帯びて対談を重視するのだろうし、映画に専念するのも、アメリカを試るのも、彼の若き嗜好なのだと思う。
この連作短編小説集で好感の持てる点がひとつだけある。主人公が「走れ!タカハシ」と云う場面は、まさしく、青春小説たる部分のひとつのポイントを鋭く突いている。矢野顕子の「読売巨人軍応援歌」で「ヤナギダ」が連呼されるのと同じ意味がある。……むろん、同じところに端を発しているのかもしれないが……。
ただ、この辺を描くと、ねじめ正一や中島らもの方がおもしろいと思うのだけど。
まあ、「69」と同じスタンスなのだと思う。制作時期が前後してしまうが。
update: 1997/08/05
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