書評日記 第336冊
井上ひさしの本は久し振り。文庫で出ている著名なものは、大方読んだ(ような気がしているだけかもしれないが)はずなので、あとは井上ひさしの小説に耽溺するだけで十分。
実は、私の場合、全集を買わない。そして読まない。筒井康隆、大江健三郎、安部公房の著作はほぼ読んでいるはずなのだが、でも「ほぼ」でしかない。そういう意味では、細野不二彦、大野安之、槇村さとる、渡辺多恵子、中垣慶に対する購買意欲の方が「全集を読む」に匹敵していると思う。
多分、「全てを知りたい」と「優れている部分を知りたい」との違いではないだろうか。以前、書いたが『この人はなんでもやっていい人』という人を私は自分の中に幾人か決めている。
井上ひさしの場合、井上ひさしという領域を抜け出さない苛立たしさもある。それは、筒井康隆と拮抗するところにある人だからこそ持つ領域なのだろうが、その部分で保守的と感じる。ただし、嫌悪感ではない。時代の良き部分を良きままに保守していく。そして、時代の新しいくなるべき部分は新しくなるままに育てていく自然さ、だろうか。筒井康隆の場合は、彼自身が時代を構築するし、破壊する。筒井康隆の世界は筒井康隆が中心であって彼が君臨するところに最高の面白さがある。井上ひさしは、一歩下がる。一歩下がるのは譲歩ではなくて、一歩さがるべきところの座が彼の場所という意味であり、一歩進んだところには実は誰も座ることが出来ないことを意味する。
彼は柳田国男を信奉するわけだが、私は柳田国男を知らない。幾つかの著作を読もうとは思っているのだが、幾つかの著作で十分ではないかと思っている。それは、柳田国男の世界というものが、静的な歴史的な意味を持たせている部分に一種の退屈さを感じるというところだろうか。暴力や殺人に静的な歴史は対抗できない。むろん、それらの派閥に対抗するのが柳田国男の世界の本質ではないとしても、現代という時代・今という時期を過ごしている自分という存在を持て余し気味な私にとって、静かな余生を望むのは笑止に近い。
ただし、羨望はある。それは、理系という文系の研究に比類して現実的社会的な選択をした後悔であるのかもしれない。むろん、これは私の中にある「文系」に過ぎないのだが。
物語という形式、人に語るという形式を重視する。現在のような「小説」という形式を失いつつある(または回顧しつつある)現代小説にとって、こういう風なかちりと嵌まる小説はもっと好まれていいような気がする。『男がいて、女に惚れて、あれあれやって、こうこうなりました』というような退屈な恋愛小説もどき・不倫小説もどきではなくて、また、『Aがいました。Bがいました。Cがいました』というような事実の羅列でお終いになってしまう物語もどき・ファンタジーもどきではなくて、自分の中のかちりと嵌まる部分を恋愛なり物語なりに当て嵌めて考えるのもひとつの小説のあり方ではないか、と思う。また、読み手も、それを退屈と思うのは、数々の性急な刺激に溢れてしまったTV・その他の弊害ではないか、と感じる必要があるのではないだろうか。
実のところは、私は「新釈遠野物語」はひとつ突き抜けない分だけ退屈さを感じる。それが時代の早漏さゆえの退屈さという懸念も残しつつも、多分、この「退屈さ」は本物だと思う。
石川淳の「狂風記」・「紫苑物語」の一風さ、谷崎潤一郎の生首の話(題名を度忘れ)のような涼やかな妖艶さ、というような作家なりの味が今ひとつ薄い。
「吉里吉里人」が躍動的だったのは、彼の持ち味だったと思うし、「ドン松五郎の生活」は「我輩…」を模していると知りつつも彼なりの味があったと思う。その点で、「新釈…」は柳田国男の「遠野物語」を底本としていると宣言しているものの、ちょっと寄り掛かり過ぎではないか、と感じる。
update: 1997/08/05
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