書評日記 第344冊
副題に「シュタイナー世界観を地下水として」と銘打たれているようにシュタイナーの心理学・神智学を定本にしてミヒャエル・エンデ著「モモ」を解説していく。
エンデ自身はシュタイナーに21歳の頃より30年間以上も接している。だから、エンデの作品をシュタイナー心理学で解説するのはあながち間違いではない。作者であるエンデの人生観・生活観・死生観というものが、シュタイナーの進める「生きる」という部分に契合している。
もちろん、作品としての「モモ」を素直に捉えることが第一になる。その上で、心理学的な分析イコール作者の意図する部分を学問的な根底を得た「真理」というものに昇華させる意味で、この「「モモ」を読む」に接することができる。
ある意味で「当たり前のことが書いてある」ような気がしてならない。それは否定的な意味ではなくて、強い肯定として「やっぱりこういう感じ方で良かったのだ」という共感であろうか。私はシュタイナー心理学に詳しくはない。最初の方に出てくるに「身体(ライブ)」・「魂(ゼーレ)」・「精神(ガイスト)」という言葉は私には単なる心理学的な用語にしか過ぎないのだが、「モモ」という作品を媒介にして子安美知子が語る文章を受け取り続けると、次第に専門用語としての違和感が取れてきて、自分の中にある「用語」にマッチするようになる。むろん、フロイト・ユング系の心理学で云えば、魂=自己、精神=自我、ということになる。
以前、私がよく使った科白「何かをわかっている人」というのは、既知ではない未知の部分、あちらの部分、知ることのできない部分、向こう側、共有する部分、安心できる部分、心地良い部分、畏れおおい部分、犯されることのできない部分、侵すことのできない部分、普遍な部分、忘れてはならない部分、根底にある部分、根底にあるべき部分、物質的世界とは違った部分、などなどをひっくるめたとある場所を「何か」と称していて、それを知っている人を「何かをわかっている人」を言っていた。
子安美知子は「わかっている人」だと私は思う。
私が「モモ」を知ったのはラジオドラマであった。「ウホッホ探検隊」も「戦争童話小説集」も「未来都市」も「横断歩道」も「女たちは泥棒」も「名画誕生」も、ラジオドラマであった。中学・高校の頃に幾度となく語り聴くことをしてきた私にとって、これらの作品は幾度となく本を再読したことと同様の意味を持つのかもしれない。
実際に活字の「モモ」に触れたのは2年前のことなのだが、「赤毛のアン」と「長くつしたのピッピ」と同様の位置にあるモモという少女の像・人間の像は、私の中の「人間性」を支える根底を成している。
読解をするために学問的な用語を使うのではない。自分の中にあるとある納得を得るために学問的な用語を借用するに過ぎない。それは学問的だからこそ広い世界で通用するかもしれない、ひとつ意味を共有しているに過ぎなく、大学的なヒエラルキーを示すためではない。インテリジェンスは、ウィットとな語りと豊かな人生を培うために必要であって、聴衆にジャーゴンをひけらかすために使うものではない。
「モモ」という作品が奥が深いのは、エンデという人間が奥が深いということを示しているに過ぎない。
私は学者ではないから、分析して説明する義務を持たない。説明するならば専門的な用語を使うよりも、様々な物語・小説を示してみて「こんな風な意味である」と示す方が幾分適切なような気がする。読解力とはそういうもので、自分の中の用語をどの程度たくさん持っているのか、目の前にあるものと本来あるべき事実と希望するものとがそれぞれどの程度の違いを持つのだろうかと考え続けることこそが、人に本当の創造性を帯びさせる。
私はラジオドラマで「モモ」を知っている。
語り聴かせの大切さ、声の大切さ。
update: 1997/08/24
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